偶然と必然
先月末のことだ。
最近通い始めた珈琲やさんがとある展示をするということで、仕事終わりに伺った。
言葉によるその展示は、日記のようであり、短編小説のようであり、誰かのなにげない呟きのようであり…
普段何気なく使っている言葉の、様々な可能性について考えさせられるものだった。
店内の壁にちりばめられた言葉たち、そしてそこに集う人たち。ふしぎな巡り合わせで出来た景色そのものがひとつの作品にも見え、するめ的にはまってしまい展示を見に何日か通ったのだが、なんだか異次元に迷い込んだような数日だった。
…展示に登場する言葉に、なんとなくずっと心にひっかかるものがあった。
「偶然か必然か、どうやってわかった?」という問い。
ざっくりいうと
偶然は因果関係が不確かでおこったもの
必然は因果関係が確かなもの(その結果以外に起こり得ないこと)
と定義されるらしい。
その因果関係というのは、AがあってBがあるという、AとBの存在が確立されていることが前提としてある。
しかし果たして、なにかの存在を絶対的に証明できるものがあるんだろうか。
「在る」とはなんだろう。
その昔デカルトは、存在を証明するものについてあれかこれかと悩んだ。そういえば私は6歳の時「私ってちゃんと生きてる?生きてるってどうやってわかる?死ぬってなに?」と母に質問攻めをして困らせたことがあった。デカルトの名言と並行して幼少期の無茶ぶりを思い出す。
存在は、何処までも不確かだ。
それはずっと昔のおじさんだって考えたわけである。なんなら6歳児だってその悩みに奮闘した。そして、おじさんも6歳児も私の母も頭を抱えたのだ。
ーなぜ「必然」という言葉が生まれたのか。
展示が行われていた日のことをぼんやり思い出しながらふと考えた。
「必然」という言葉を生んだ誰かさんは、いったいどのような気持ちでそれを言葉にしたのだろう?
なにをもってすれば存在のあるなしが証明されるのか。
偶然は「そんなのよくわからん、偶然ってことで」と言ってしまえばなんとなく成立できる。しかし突き詰めればやはり偶然という概念も不確かである。
そんなどこまでもいたちごっこな不確かさがあふれるこの世で、更にその「偶然」を否定し「起こるべくして起こったー必然」という概念が生まれたということ。
それは、混沌とする悩みの中に生まれた、ささやかな願いにすら思えた。
生まれては消える瞬間に、誰かは必然という名前を付けた。
そう願わずにはいられない感覚を、私は知っている。
不確かさだからこそ、確かさを見いだしたいと思う、かけがえのない瞬間を知っている。
必然という概念を生んだ誰かが、いったいどれくらい昔の人で、男なのか女なのか、それすらも分からないけれども。そういう酔狂なひとが過去にいたらしく、その言葉にあーだーこーだと考えを巡らせている私という一人の人間がいるということ。
そしてその誰かも私と同じように、いつかの時の狭間、必然を願った瞬間があったのだろうということ。
名もしらぬ誰かとわたしの
過去、現在、未来が交差したような感覚を覚えた。
私が珈琲やさんを知り、展示を見て、考えを巡らせ、この感覚に至ったことの因果関係の確かさなど、わからない。だがたしかに私は、目の前に向き合ったものから、なにかを感じ取った。
この出会いが必然であってほしい、とおもう。
不確かさのなかでさえも、確かさを願う。ひとはいくらでも願い、想像できる。
訪れる出会いに秘められた、様々な可能性の、果てしなさ。
不確かさがじわじわと心をなやませるなか、不確かであるからこその幸せを感じる。
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