ありをりはべり

日常のひきこもごも

信じるもの

「オネーサン、カミサマヲ、シンジマスカ?」


それは先月はじめのこと。バス停で、あと20分後に来るという市内線を待っていると、ヘルメットを被り自転車をきこきこ漕いでくる女性外国人二人に声をかけられた。

地元でもこの出で立ちの外国のかたというのは目にしていたので、ああこれがあの。ついに自分も声をかけられたなぁというようなおももちで。
わたしは気持ち一歩ひいて目の前の出来事を見つめていた。

「ワタシタチハ○○トイウトコカラキマシタ、カミサマハスバラシイ。ソノコトヲオツタエシニキマシタ」

金髪に、ブルーの瞳が美しい女性だった。
背に担いだリュックから、沢山書き込みされたノートを取り出し、私とノートを交互に見ながらたどたどしく日本語を話す。

夜7時の道路沿い。彼女たちの肩越しから向かってきては横を通りすぎていく何台もの車の眩しいライトが
その鋭い光を小さな肩に掠めていった。

夕刻から雲行きの怪しげだった空から、ぱらぱらと小雨が降り注いでくる。
ペコちゃんキャンディみたいな、丸と棒だけの心もとない標識の、屋根もない錆び付いたバス停。雨と共に錆の臭いがふわりと香った気がした。


私のとなりにはもう一人、同じようにバスを待っているおじさんが立っていた。
おじさんはわたしを見て、いかにも不憫そうな顔をしてそっと目を逸らして、空を仰いだ。

わたしはというと、なんともどうしていいのか、笑っているのか苦笑いなのか曖昧な表情で彼女らを見つめるしかなかった。

「オネーサンハ、カミサマヲ、シンジテイマスカ?」
と聞かれて、私が一番先に思い浮かんだのは地元で接客業をする母のことだった。

やたらに口のうまい母はどの店に働きに出ても売り上げが良かった。
宗教の勧誘なんて「あんたたち神様に払う金が有るならこっちにくれないかね、がはは」などと口にしそうなくらいだ。
そんな母をみて育った私は、見えないものより見えるものを信じるようになった。

だから自分が何を信じているかって、
それは自分自身に他ならないだろうと、すんなり自分の答えは用意できたのだ。

けれども。

リュックから綺麗に折られたパンフレットを取りだし、沖縄ではここに教会があって、いついつ集まる日取りなので、お姉さんも是非と。
馴れない日本語で必死に説明する彼女たちに、わたしはそれを口にできなかった。


神様など信じないと、言えなかった。


それでもさすがにそちらには入れないのでということは伝えて、はっきりと断りを入れ。
心の奥に残る罪悪感のために、お話しか聞けなくて申し訳ないと謝罪した。


しゅんとしょげた顔をした彼女たちだったが、それでもありがとう、と丁寧に頭を下げて、雨の降りしきる夜道を自転車で走り去っていった。

彼女たちが見えなくなったあたりで、隣に立っていたおじさんが「ちゃんとお話を聞いて偉いですね、僕なら無視しますよ」と言って、苦笑した。




…何が偉いのだろう、と思った。



「カミサマハ、イツデモ
ワタシタチヲ、タスケテクレル」

彼女たちは、そう言っていたのに。


知らない土地の、暗い夜道を
言葉も十分とは言えないのに、若い女性が二人だけで

降りしきる雨のなか、傘も指さずに
神様を信じてみないかと声をかけて回って。


これが彼女たちの信じる神様が命じたことなのかと、私は思った。


時には罵倒されたりもするだろう、あんな綺麗な出で立ちの女性たちなのだからきっと、おかしな人間が変な気を起こすかもしれない。

視線さえ合わせて貰えずに終わることも、多々あるだろう。


目を合わせて、話を聞いただけの自分の行動も、それはそれで彼女たちの限られた時間を無駄にさせたようなもので、ひどく罪悪感を感じるものだし

偉いといわれても、なにがどう偉いのかと
私はさっぱり分からなかった。


ただひとつわかったことは、
おじさんが言ったように、こうした場面では、無視することも自分のテリトリーへの侵入を防ぐにはやむを得ない手段だということ。
それが当たり前のように認識されているということだ。



雨は次第に足を早めて、景色は力強く降り注ぐ無数の雨粒であっという間に灰白色になった。
雨粒を弾いて走り去るいくつもの車、景色を貫くように走るライト。
定刻の時間を過ぎてやってきたバスに、私は乗り込んだ。








もしも、私が神様なら。



雨の日には雨宿りして休みなさい、というだろう。

女性だけでは危ない、と注意するだろう。

そして、ときには



いかなる力を使っても、抗えないものもあるのだと、話すだろう。




バスのなかは温かく、雨で冷えた指先はじんわりと温もりを取り戻してきた。


彼女たちはいま、どこにいるだろう。



いくつもの細やかな雨粒が絡まった金髪の髪は
街灯と車のライトの多方向より光を纏って、それは綺麗だったなと
まぶたの裏に残像が浮かんだ。



どうか彼女たちの信じる神様から
すこしでもご加護がありますように、と





神様など信じないと、心に決めたのに




私はきづけば、その見えないものへと、願いをかけていた。

かたち

12月なかばの東京は、一昨年の同じ時期と比べてとても暖かかった。
目的地へと向かうまで、準備していた上着は片手に持ったまま、電車に揺られて窓の外をぼんやりと眺める。昨日の曇天とは違い、東から薄く光を抱いてつんと冷えた青色の空。ビルのてっぺんと空との境い目に、視線が吸い込まれた。


がたんごとんと青色の電車に揺られながら一昨年はこんなことがあった、あんな風景があったなどと思い出す。

つんとした冬の空の青さは、記憶と重ねてみてもやはり同じような色だというのに。
なぜかどうして、温かに目に写った。


緩やかな曲線を描いて電車は進む。やがて日は暮れ、無数の光を纏う町に埋もれるように一旦沈んで、幾つかの路線を経たのち心地よい振動とともに目的地へとたどり着いた。

今回の東京行きは、パートナーの家族への挨拶というのが目的で。いままでとは違い緊張感がある、弾丸の一泊二日。
オレンジ色の街灯に迎えられた一軒家、表札を見てついに来てしまったと余計に緊張感が生まれた。
迎えられる立場というのは久しぶりで、夕御飯の席では緊張を解すためにと最近めっきり飲めなくなったお酒を無理に飲み。
今度はお酒を飲んだせいで失態をしないようにと、酔いながらも必死に理性を保とうとする数時間を迎えることとなってしまった。

結果、言えることはやはり、お酒はほどほどにしたほうがよいということである。

パートナーの家族は、きっとこんな家族なのではないかと描いていたそのままであった。その夜用意して頂いたお鍋の、ぐつぐつとした音や湯気、みんなで同じご飯を囲むという、映画かドラマかでみたワンシーンがやたらに似合っていて、ああこういう家庭があるのだなと、羨ましくなった。

家を出るとき、また来てねと言われて
それがとても嬉しく、そして、なにをどうすればいいのか明確には見いだせないけれど、頑張ろうと思った。

慣れない幸せの形を前に、私は最初、すこし怖じ気づいた。
だが恐らくこの形はきっとすぐにできた物ではなくて、各々の思いが激しくぶつかり、ときにゆっくりと折り重なって、日々の小さな努力を経て存在しているのであろうことを
彼から聞いた数々のエピソードと一つ一つの瞬間から感じた。

そして見慣れぬ風景を羨ましいと思った瞬間に、諦めたと言い聞かせながら、やはりどこかしらで自分の家族もこうでありたかったと、夢に描いていたのだとはたとした。
すこし遅くなったけれど、諦めない、という選択肢を選んでも良いだろうかと。
まだ距離感がつかめずにいる家族のことを、思った。

そのためにどう一歩踏み出すか。これは暫くの私の宿題だろう。


帰りは駅構内でほんのすこし人助けをする場面があって
それをすんなりとやってのけたパートナーに、
またひとつ尊敬の気持ちが生まれた。

何度も何度も、ありがとうと頭を下げるおばあさんの背を彼は優しくさすり、誰も互いに目を合わせぬ雑踏のなかで、そこだけ特異な空間に見えた。

それは胸の奥が優しくきゅっとつかまれるような瞬間と、じんわりと温かに過ぎ行く数十分とが生まれた偶然の出会いだった。


期間中は、久しぶりの再会もあった。
よく、地元のボランティアに一緒に参加していた学生時代の友人から、会いたいと嬉しい連絡があったのだ。

近頃、華やかなパーティーでの写真をよくSNSにアップしていて、どのように変わっているのか気になっていたのだが。

会って早々「お金を沢山稼いで成功する」「友人が貧乏なんて嫌だ、私はそんななかに入りたくない」と現在取り組んでいるらしいビジネスと、描く将来について話をされた。

心優しくエネルギーに溢れていた友人は、学生時代と変わらぬものと、変わってしまったものがあるように思えた。

それは東京という街がそうさせたのか、元々あった彼女本来のものに私が気づいていなかっただけか、どちらかは定かではないが。

彼女が、より質の良い品物や、化学と医療を最大限に生かして得る長寿や、輝かしい世界について目を輝かせて話すなか、どこか私の心は一歩引いたところにあった。

「幸せになりたい」
そう強く言葉にされて、ふっと思い浮かんだのは

このお鍋美味しいねと誰かと同じ食卓を囲んで笑ったり、寒い日に手を繋いで暖めあったり、自分のほんのすこしの時間を見知らぬ誰かの目的のために共有したり。

そういう、彼女に言わせてみれば全く一銭にもならないようなものなのだったのだ。

貧乏なんて嫌じゃないかと問われたとき
それはなにを貧しいとするかによるんじゃないかな、と溢した私を、友人はきょとんと見つめた。

すんなりきっぱりと自分の答えが出た自分自身に、私すらもやや驚いた。

いろいろな、幸せがある。

恋に悩んだ一昨年、家族と喧嘩ばかりしていた思春期、私はなにを幸せと呼んでいただろう。
なにを貧しさだと思っていただろう。

記憶が、痛みではなく、胸に優しくノックをするように訴えかける。


東京の、これでもかと輝く街を、ごったがえす人並みに揉まれながら歩いて、星なんてひとつも見えないような空を仰いで、わたしはやっぱり自然が恋しくて、ひとの温もりがほしくなった。

目に見えず、触れず、約束などされない
そんな不確かな、けれど何にも代えられない温もりの一瞬を

どうしてなのか、と聞かれればたぶん
自分だってよくわからない。
だけれどそれをただの憧れでは終わりたくないたしかな強さで

私はいつも、描いているのだ。



東京。


やはりここはいつも、自分にとって確かな何かをくれる所だ。


帰りの飛行機が飛び立つのを待つ今
きらびやかなネオンに、すこしの怖さと、感謝を抱いている。

別れの淵

 

近い身内の間で、別れが続いている。

 

先日は祖父が亡くなり、昨日帰省し告別式を終えたところである。

 

祖父は92歳の大往生でこの世を去った。肺炎で入退院を繰り返したが、入院中は色々と文句を言いながらも毎日面会にくる家族に支えられ、最期は洗髪中に、とても穏やかな表情で息を引き取ったという。

 

告別式の日。天気予報では雨であったが、日中は晴天がつづき、祖父の遺骨を納めた夕方には空は鮮やかな夕焼けで彩られた。

そして夜には闇の中に無数の星が瞬き、九州から訪れた兄嫁は満天の星空に感動した。

 

 

こうした悲しみのふちにも、どこか穏やかな救いがあること。

それは祖父からの、ある意味贈りもののようにも感じた。

 

 

祖父の訃報を受け帰省する前日には、不思議な縁というか、予期せぬ再会があった。

6年ぶりに見るその人は以前と変わらず優しげな目元をして、けれど目の前の出来事に目を赤らめ、震えていた。

ここにきたら私に会えると思って、と掠れた声で言われたとき、真っ白で、なにも刻まれていなかった6年間がいとも簡単に縮まった気持ちになった。

 

だが同時に、今やもう私を取り巻く状況も、私とその人との関係性も全く違うものになったのだと、気付いた。

 

 

 

人の命は、あっけない、と思う。

そしてなんて尊いものなのか、とも。

 

つながれてきた命が、あとどれほどのものか分からない人生のなかに、幾重にも交差していく。

 

今度、また逢えたとき

幸せな報告ができるだろうか。

そう思って、いや、私は今も幸せなんだとはっとして、すこし可笑しい気持ちになった。

 

思い出は、時間を飛び越えて今もやはりその姿を残すが

生まれも境遇も趣味も全く重ならないというのに、不器用ながらも精一杯向き合いたいと思うただ一人から、私はもう、手を離すことができない。

 

そう言って思いを伝えても、きっとしずかに笑うだけだろうけども。

 

 

温もりと、悲しみの連鎖。

 

私は私の大切な人のために

もう、進まなければならない。

 

 

 

 

 

 


Art&Music Porcupine vol.2 / ビューティフルハミングバード/「夜明けの歌 ...

 

闇の向こうの光を見に行こう

ついこのあいだ
ほんのすこし先
あとどれくらい先かわからない向こう側

そんな広い時間軸で
大切な人との別れを感じている。





先日、夏に病に倒れ入院していた叔父が、急逝した。
自宅への退院を目前にしていたのだが、最後は心臓も悪くして、ぜいぜい苦しい息をしながら去ったらしい。
それでも、遺影に写る叔父は沢山の花に囲まれて、穏やかに笑っていて。あぁ、そうかこんなふうに笑う人だったのだと妙に感動して、こんなに近い身内の、半年前の姿すら朧気になっていた自分にすこしがっかりした。

なにかやりのこしたことは無いだろうか、
最後に伝えたいことは伝えられたのだろうか。
ぐるぐるとそんなことを考えて
何も掴みきれない自分に、さらに情けなくなって。

ゆらゆらと揺れる線香の煙と、その向こうで柔らかに笑う叔父を、ただぼんやりと見ていた。





つい最近では、わたしの尊敬する夫婦がここ沖縄を発つとの報せを受けて。
びっくりしたのだけれども、どこかしっくりともきている自分がいた。
あたたかく、強い人は、周囲が敬遠する境界線をいとも簡単に渡ってゆくものだと思う。
激しく吹き付ける向かい風にすら、きらきらと笑いながら。

穏やかなたたずまいだが、笑顔のその奥になにか強い芯のようなものを感じさせるお二人。
いつも、静かなエネルギーみたいなものを感じていた。


それは
すこし胸が寂しくなるけれども、
爽やかで、温かな別れの予感。




どこが終わりで始まりなのか
学生の頃まではよく、物事の入口と出口について考えていた。
足し算みたいに、これはこれにしかならないと、お決まり文句のような分かりやすい答えを求めて。

だけれども
嬉しいと苦しいがいっしょくたになって胸を苦しめる
そんなわけのわからぬ一瞬に、得られなかったひとつの見解を見いだしたりしてゆくうちに
少しずつ、思考の先の輪郭がやわやわとぼやけていった。

そして
世の中には恐らくどうしようもない悲しみや幸せが溢れていて
私が考えていた「物事」は、蟻の巣のように道々をつくっており
それは最早入口と出口なんてゆう次元ではないのだろうと。

答えのようで答えでない
なんとも頼りなげな、だが妙にしっくりくるような不思議な案配の終着点へと行き着いた。

大切な人との別れが、すぐ近くに、そしてそう遠くはない未来にある。

叔父は亡くなってしまった。もう体温と共に、あの温かな笑顔に触れることはできない。
だがきっと、命を失うさよならのときですら
本当に大切なものは失われない。

叔父の温かな笑顔は、遺影だけに残されたものではない。通夜では予想を上回る参列者が訪れ、しんとしずまりかえっていた叔母の家は、花で埋め尽くされた。
叔父の残したものは、笑顔のもっと奥に、その先に
あるのだと思う。

なにが終わりで始まりか。
考えればそれは本当にきりがない。

けれどたしかに思うのは、別れは絶対的な終わりではないということだ。そして必ずしもなにかの始まりを告げるものでもないのだとも、思う。


叔父の命が終わりを告げるよりももっと前に、叔父の思想や描く人生にはなんらかの終焉が来ていたかもしれない。
少しずつ体が軋み始めたときから、自分自身と対峙する日々が始まったのかもしれない。

そして叔父が亡くなり一週間がたった今、残された叔母は、周囲の温かな掌に触れて、何かの答えを見つけ出そうとしている。


涙で迎えた別れも、笑って迎えた別れも、
きっとどこかで、幸せの連鎖へと結び付いていたら。

来年にはここ沖縄を離れると言う、お二人。いつもの珈琲屋さんで、穏やかに笑いあっていた彼らを思う。

すこし悲しく寂しくもあるが、
きっとあのお二人の温かさ、言葉の的確さ、ときに感ずるつんとした鋭さは
ほかの誰に重なることはなく
心にありつづけるのだろうと思う。


人との出会いが、ゆっくりと自分の糧になってゆく。

お二人の尊い感性に感謝すると共に
この先の長い旅路がぬくもりに包まれたものであるようにと、願っている。




光と影 ハナレグミcover - YouTube

一年を経て

言葉には責任を持て。

というのは、中学のときに母に言われた言葉である。


当時のわたしと言えば、丁度反抗期真っ只中で「なんか知らないけどお父さんが嫌」「お兄ちゃんも叔父さんも嫌」「でもクラスのあの男の子は好き」そんなカオスな世界を生きていた。

何が嫌いで何が好き、という境目は、ひどく明瞭すぎているわりに
今日はこちら側、明日にはあちら側と、せわしなく変更を繰り返していた。

学校にいけばいじめが溢れていて、まるで当番みたいにぐるぐると、ターゲットが変わっていた。
いじめられていた同級生をかばい自分がいじめられてしまったこともあり、ストレスで体を壊し一年間で二度入院してしまった。
その後、私は遠目で誰かが泣いているのを見るだけのひとになった。傍観者であることはひとまず自分の安全を守ることに繋がったが、しかしそれはいじめに加担しているといっても反論はできないのだと

私はきづいていても、じっと隠れていたのだ。


しだいに荒んだ言葉ばかり吐くようになり、ずいぶん両親には感情的な態度を取り、傷つけた。

そんなときに母に言われたのが、一番最初に挙げた言葉である。


言葉。
それは受けとる側によって、様々な解釈と可能性を持つものだ。
初めて言葉を紡いだのはいつごろのことか、記憶にすらないが。
いつのまにか私はなんの試験も受けずとも許可を得ずとも、誰かに意思を伝達する方法を習得し、実践していた。

やっと言葉の裏に隠された危険性に気づいたのは、日々、当たり前のように誰かが輪の中から排除されるという場面を目にしてからだ。

そうしていつのまにか、家族という輪の中すら、自らのことばで傷つけ、壊していたのだ。

言葉はときにはかり知れぬ力を持って、人に訴えかける。

だから私は文章を書くのは好きでも他人に見せることは好きではなかった。

ひょんなことで始めたこのブログも、開始からもう一年が経った。

二年目に向かう私は、どんな言葉を綴っていくだろうか。

どうかあの、心の奥底を抉るような瞬間がまたも在ってはならないと願いながら

母から受けたあの一言を胸に
残された、今日という日の数時間


私は、私の言葉と向き合おうとおもう。

故郷

 

夕方、以前住んでいた町でお世話になった方たちと、ご飯を食べに行った。

 

海沿いのホテルに並び建つそのイタリアンレストランは、2階までは屋内、3階からはテラス席となっていた。屋内席は禁煙席との説明に、一人煙草を嗜む方が居られた私たちはテラス席へ案内される。

 

席につくとみな表情を綻ばせて、グラスを小さく挙げて、乾杯の声。波の音が耳を撫で、吹きぬける潮風が涼しく心地よい。

 

メンバーは、以前通っていたカフェのオーナーと、そのお店の常連さん。私より20歳から30歳ほど年上のみなさんは、まるで家族のように温かく接してくれ「娘のように思っているから」と、笑う。

 

学生の頃通っていたカフェ。そこに集う近所の人々は、いつも優しかった。独り暮らしの学生生活を気遣い、時にはうちで採れた野菜、今日作ったご飯だとかを分けてくださり、台風のときなどは安否を心配する電話をくれた。

 

数年がたち社会人になると、話題は学生生活から仕事へと変わり

 

パートナーができたことで、またひとつ話題が増える。

 

「どんな家族になりたい?」

 

 家族。そう言われて、実はすんなりと出てくる答えが無かった。

子供を本当に望む時期になったとき、それが叶う体だろうか。

 何かあったとき相手の力になるために、いまからできることは、何だろうか。

 お金はどれくらい貯めておいたほうがいいのか。そのために、いまから何を削るのか。

 

幸せな家庭を描くより先に浮かんだのは、生活していくにあたっての不安要素、自分の体への不安。

 

真っ黒な沼にでも足を踏み入れたように、喉がうまく言葉を紡げなかった。

私をよく知る人たちからの、不器用な私を案ずるその優しさもまた、胸をついた。

 

お料理は美味しく、景色は美しかった。みな笑顔で、変わらないものがそこにはあった。けれど変わったものも、わたしが思うよりずっと近くに、そして、遠くにある気がした。

 

ひとり車を走らせた家路は、いつもより少しだけ長く時間を感じた。

 

道中、なんだかお酒でも飲みに行きたい気持ちになって、財布の中のお札の数を思い起こして長らく訪れていないバーの名前を反芻してみた。

昨年といえば、流れに任せては度数も名前もよくわからないお酒を飲みにそこへ通い、不安な夜をやり過ごしていた。朝を迎えれば寂しさやら痛さやらが胸を押しつぶして、自分は太陽と一緒に生きたい人間なのだと薄々気づいても、なかなか抜け出せないままで。そうしていつの間にか一年が経っていたのだ。

 

痛む記憶を思いながら、アパートの駐車場に車を停める。

エンジンを切ると、なにかふっと胸のうちが温まる感覚がして、私は、はたと動きを止める。

 

それはいつかの思い出でもなく

描くこれからでもなく、ただ

帰ってきたのだ、という安心感。

 

思い出したように車から出て、エレベーターを上がり、部屋の鍵を開ける。

 

かちゃりと音をたてて開いた向こうに見えたのは

 

ベランダに干されている洗濯物や

台所、お昼ご飯を料理する際使ったフライパンと、木ベラ。

朝、水をやった観葉植物。

そんな、なんでもない生活の一部。

それにすら、ほっと胸が温かくなる、自分。

 

床にこんもり山となっている洗濯物は、今日昼間に取り込んだもの。お山のてっぺんにあったタオルケットからは、日溜まりの匂いがした。

すぅっと吸い込んで、ふっと張っていた心がまたひとつ綻ぶ。


未来を思うと、私はいつも不安だった。


自分の知らぬ所でたしかになにかが変わっていて、突如、どこかで選択をせまられる。二つ一緒には選べないときがくる。

 


そのとき何をどんな基準で選べばいいのか、守りたいものを守れるのか。

 

いつだって明日は中途半端に顔をのぞかせていて、そして一番怖さを感じている部分ほど、あいまいに見えた。

 

「どんな家族になりたい?」

 

懐かしい人たちは目を細めてそう聞いた。そこには変わらぬ優しさがあって、あのころより少しだけ大人になった私がいて。

数年前、小さな島からやってきた何も知らない私を温かく迎えいれてくれた場所は、やはりあたたかかった。 

 

胸の中に陽だまりができたようなぬくもりを感じて、はたとする。

むしろなりたい家族のかたちは、今日食事をともにしたその場に、描かれていたのかもしれないのだと。

 

「君を娘のように思っている」

 

見知っているいないに関わらず、目の前のなにかを慈しむということ、手を差し伸べるということ。18の私はそれを体感して、いつしか自分もそうありたいと思い始めた。

 

きっと今日、私は潮風吹くその場所で、もうひとつの故郷に帰ったのだ。

 

私はどんな家族を築いていくだろう。

それはいつしか、私以外の誰かの故郷ともなりえるだろうか。

 

まだ少しだけおそれを感じながらも、描く未来はすべて暗闇ではない。

求めるものはきっともっとシンプルでも良いのだと、言い聞かせて、頷く。

 

ふわりと陽だまりの匂いの漂うアパートの一室、朝になれば窓から柔らかな朝日が差し込むだろう。

 

一日の始まりをこんなにもあたたかな気持ちで迎えられる今が、今はただ、たまらなく、愛おしい。

たびだち

夕刻、真夏のそれより少しだけ早く、藍色のとばりがおりる。 
昼間は相変わらずの強い日差しの合間にも、雲が下りれば冷たい風が吹き、雨を連れてくるようになった。 
大きいドットに小さいドット。交差する傘の色とりどり。 病院の窓から道路を見下ろすと、それはずらりと並ぶチュッパチャプスキャンディみたいで、いつだかスーパーで見たお菓子売り場の光景と重なった。
 季節は静かにうつろって、時はいつのまにか、9月。

 文章もおこさず8月の私は何をしていたかというと、引っ越しをしていた。
 といっても近所から近所へなのだけれど、それでも住んでいたアパートには色々と思い出がつまっていたので、退去の日は感慨深くもなった。

 特に印象深いのはアパートの住民の方々だった。みな愛想よく、親切で、入居のときも引っ越しのときも挨拶を欠かさない。よろしくお願いします、ありがとうございました。数か月、数年ごとに繰り返されるそれは、とても優しい時間だった。 思えばそうした人たちとのつながりのなかで、名も職業も知らぬ他者へもまっすぐに敬意を表すことや、感謝の気持ちを述べる、挨拶をすることなどを、いつのまにか吸収したのだとおもう。 

そして思い出整理としてたくさんのものを捨て、また新たな箱に納めていくなか 、自分が思っていたよりも沢山の思い出に支えられてきたのだということを、知った。 

日付が既に一昨年の、もう全く連絡をとっていない北海道の文通相手からの手紙、福岡旅行でお世話になったタクシー運転手の名刺。数年前に使っていた携帯電話。高校の頃の写真の数々、、は、やはり鉄板として。それらを棚から取り出す際、空っぽになって久方ぶりに見る棚奥の木目にすら、些か感動を覚えた。同時に鼻をつく埃の匂いに、掃除しとくべきだったと反省するわけだが。

割と顔と名前の記憶力はよいと言われる私だが、もう顔を思いだすのも難しいだれかも、名前を聞いてもぴんとこないだれかも、指で足りるくらいは見つけてしまう。

私の望む望まないに限らず、時間は体温や声、美しい景色や匂いまでをも彼方に連れていってしまう。

だがだからこそ、冬の夜のつんとした闇のなかで思い出す夏の夕暮れは、より鮮やかさで。冬の持つ冷たさを恋しく思う熱帯夜、寒く厳しかった記憶も至福にすら思えるのだろう。

実態は伴わずも思い出はいつも自分のそばにあり
棚奥の木目がそうであるように
長い間を経て目の前に現れたときには、古さと新しさを兼ね揃えたものにもなる。


数年前、小さい子供だった私が父の背におぶられて家路についた夕刻の時。
派手に転んで大ケガをしたときの痛み。
道端の花の蜜を吸って、その甘さに驚いたこと。

もう20年ほど前のことでもまだ、私の脳裏に鮮明に焼き付き、触感や味覚までもが思い出される。

人も物も命は限られている。
だが記憶は時間を越えてあり続ける。
感覚はきっとなににも越えられないものを持っていて、だからこそ、尊い。

よろしくお願いします。
ありがとうございました。

始まりと終わり
出会いと別れの
温かな挨拶を抱いて


久しぶりの日光を気持ち良さそうにあびる、棚奥の木目に
いつかの温かい記憶を思い起こしている。