別れの淵
近い身内の間で、別れが続いている。
先日は祖父が亡くなり、昨日帰省し告別式を終えたところである。
祖父は92歳の大往生でこの世を去った。肺炎で入退院を繰り返したが、入院中は色々と文句を言いながらも毎日面会にくる家族に支えられ、最期は洗髪中に、とても穏やかな表情で息を引き取ったという。
告別式の日。天気予報では雨であったが、日中は晴天がつづき、祖父の遺骨を納めた夕方には空は鮮やかな夕焼けで彩られた。
そして夜には闇の中に無数の星が瞬き、九州から訪れた兄嫁は満天の星空に感動した。
こうした悲しみのふちにも、どこか穏やかな救いがあること。
それは祖父からの、ある意味贈りもののようにも感じた。
祖父の訃報を受け帰省する前日には、不思議な縁というか、予期せぬ再会があった。
6年ぶりに見るその人は以前と変わらず優しげな目元をして、けれど目の前の出来事に目を赤らめ、震えていた。
ここにきたら私に会えると思って、と掠れた声で言われたとき、真っ白で、なにも刻まれていなかった6年間がいとも簡単に縮まった気持ちになった。
だが同時に、今やもう私を取り巻く状況も、私とその人との関係性も全く違うものになったのだと、気付いた。
人の命は、あっけない、と思う。
そしてなんて尊いものなのか、とも。
つながれてきた命が、あとどれほどのものか分からない人生のなかに、幾重にも交差していく。
今度、また逢えたとき
幸せな報告ができるだろうか。
そう思って、いや、私は今も幸せなんだとはっとして、すこし可笑しい気持ちになった。
思い出は、時間を飛び越えて今もやはりその姿を残すが
生まれも境遇も趣味も全く重ならないというのに、不器用ながらも精一杯向き合いたいと思うただ一人から、私はもう、手を離すことができない。
そう言って思いを伝えても、きっとしずかに笑うだけだろうけども。
温もりと、悲しみの連鎖。
私は私の大切な人のために
もう、進まなければならない。
Art&Music Porcupine vol.2 / ビューティフルハミングバード/「夜明けの歌 ...
闇の向こうの光を見に行こう
ついこのあいだ
ほんのすこし先
あとどれくらい先かわからない向こう側
そんな広い時間軸で
大切な人との別れを感じている。
先日、夏に病に倒れ入院していた叔父が、急逝した。
自宅への退院を目前にしていたのだが、最後は心臓も悪くして、ぜいぜい苦しい息をしながら去ったらしい。
それでも、遺影に写る叔父は沢山の花に囲まれて、穏やかに笑っていて。あぁ、そうかこんなふうに笑う人だったのだと妙に感動して、こんなに近い身内の、半年前の姿すら朧気になっていた自分にすこしがっかりした。
なにかやりのこしたことは無いだろうか、
最後に伝えたいことは伝えられたのだろうか。
ぐるぐるとそんなことを考えて
何も掴みきれない自分に、さらに情けなくなって。
ゆらゆらと揺れる線香の煙と、その向こうで柔らかに笑う叔父を、ただぼんやりと見ていた。
つい最近では、わたしの尊敬する夫婦がここ沖縄を発つとの報せを受けて。
びっくりしたのだけれども、どこかしっくりともきている自分がいた。
あたたかく、強い人は、周囲が敬遠する境界線をいとも簡単に渡ってゆくものだと思う。
激しく吹き付ける向かい風にすら、きらきらと笑いながら。
穏やかなたたずまいだが、笑顔のその奥になにか強い芯のようなものを感じさせるお二人。
いつも、静かなエネルギーみたいなものを感じていた。
それは
すこし胸が寂しくなるけれども、
爽やかで、温かな別れの予感。
どこが終わりで始まりなのか
学生の頃まではよく、物事の入口と出口について考えていた。
足し算みたいに、これはこれにしかならないと、お決まり文句のような分かりやすい答えを求めて。
だけれども
嬉しいと苦しいがいっしょくたになって胸を苦しめる
そんなわけのわからぬ一瞬に、得られなかったひとつの見解を見いだしたりしてゆくうちに
少しずつ、思考の先の輪郭がやわやわとぼやけていった。
そして
世の中には恐らくどうしようもない悲しみや幸せが溢れていて
私が考えていた「物事」は、蟻の巣のように道々をつくっており
それは最早入口と出口なんてゆう次元ではないのだろうと。
答えのようで答えでない
なんとも頼りなげな、だが妙にしっくりくるような不思議な案配の終着点へと行き着いた。
大切な人との別れが、すぐ近くに、そしてそう遠くはない未来にある。
叔父は亡くなってしまった。もう体温と共に、あの温かな笑顔に触れることはできない。
だがきっと、命を失うさよならのときですら
本当に大切なものは失われない。
叔父の温かな笑顔は、遺影だけに残されたものではない。通夜では予想を上回る参列者が訪れ、しんとしずまりかえっていた叔母の家は、花で埋め尽くされた。
叔父の残したものは、笑顔のもっと奥に、その先に
あるのだと思う。
なにが終わりで始まりか。
考えればそれは本当にきりがない。
けれどたしかに思うのは、別れは絶対的な終わりではないということだ。そして必ずしもなにかの始まりを告げるものでもないのだとも、思う。
叔父の命が終わりを告げるよりももっと前に、叔父の思想や描く人生にはなんらかの終焉が来ていたかもしれない。
少しずつ体が軋み始めたときから、自分自身と対峙する日々が始まったのかもしれない。
そして叔父が亡くなり一週間がたった今、残された叔母は、周囲の温かな掌に触れて、何かの答えを見つけ出そうとしている。
涙で迎えた別れも、笑って迎えた別れも、
きっとどこかで、幸せの連鎖へと結び付いていたら。
来年にはここ沖縄を離れると言う、お二人。いつもの珈琲屋さんで、穏やかに笑いあっていた彼らを思う。
すこし悲しく寂しくもあるが、
きっとあのお二人の温かさ、言葉の的確さ、ときに感ずるつんとした鋭さは
ほかの誰に重なることはなく
心にありつづけるのだろうと思う。
人との出会いが、ゆっくりと自分の糧になってゆく。
お二人の尊い感性に感謝すると共に
この先の長い旅路がぬくもりに包まれたものであるようにと、願っている。
一年を経て
言葉には責任を持て。
というのは、中学のときに母に言われた言葉である。
当時のわたしと言えば、丁度反抗期真っ只中で「なんか知らないけどお父さんが嫌」「お兄ちゃんも叔父さんも嫌」「でもクラスのあの男の子は好き」そんなカオスな世界を生きていた。
何が嫌いで何が好き、という境目は、ひどく明瞭すぎているわりに
今日はこちら側、明日にはあちら側と、せわしなく変更を繰り返していた。
学校にいけばいじめが溢れていて、まるで当番みたいにぐるぐると、ターゲットが変わっていた。
いじめられていた同級生をかばい自分がいじめられてしまったこともあり、ストレスで体を壊し一年間で二度入院してしまった。
その後、私は遠目で誰かが泣いているのを見るだけのひとになった。傍観者であることはひとまず自分の安全を守ることに繋がったが、しかしそれはいじめに加担しているといっても反論はできないのだと
私はきづいていても、じっと隠れていたのだ。
しだいに荒んだ言葉ばかり吐くようになり、ずいぶん両親には感情的な態度を取り、傷つけた。
そんなときに母に言われたのが、一番最初に挙げた言葉である。
言葉。
それは受けとる側によって、様々な解釈と可能性を持つものだ。
初めて言葉を紡いだのはいつごろのことか、記憶にすらないが。
いつのまにか私はなんの試験も受けずとも許可を得ずとも、誰かに意思を伝達する方法を習得し、実践していた。
やっと言葉の裏に隠された危険性に気づいたのは、日々、当たり前のように誰かが輪の中から排除されるという場面を目にしてからだ。
そうしていつのまにか、家族という輪の中すら、自らのことばで傷つけ、壊していたのだ。
言葉はときにはかり知れぬ力を持って、人に訴えかける。
だから私は文章を書くのは好きでも他人に見せることは好きではなかった。
ひょんなことで始めたこのブログも、開始からもう一年が経った。
二年目に向かう私は、どんな言葉を綴っていくだろうか。
どうかあの、心の奥底を抉るような瞬間がまたも在ってはならないと願いながら
母から受けたあの一言を胸に
残された、今日という日の数時間
私は、私の言葉と向き合おうとおもう。
故郷
夕方、以前住んでいた町でお世話になった方たちと、ご飯を食べに行った。
海沿いのホテルに並び建つそのイタリアンレストランは、2階までは屋内、3階からはテラス席となっていた。屋内席は禁煙席との説明に、一人煙草を嗜む方が居られた私たちはテラス席へ案内される。
席につくとみな表情を綻ばせて、グラスを小さく挙げて、乾杯の声。波の音が耳を撫で、吹きぬける潮風が涼しく心地よい。
メンバーは、以前通っていたカフェのオーナーと、そのお店の常連さん。私より20歳から30歳ほど年上のみなさんは、まるで家族のように温かく接してくれ「娘のように思っているから」と、笑う。
学生の頃通っていたカフェ。そこに集う近所の人々は、いつも優しかった。独り暮らしの学生生活を気遣い、時にはうちで採れた野菜、今日作ったご飯だとかを分けてくださり、台風のときなどは安否を心配する電話をくれた。
数年がたち社会人になると、話題は学生生活から仕事へと変わり
パートナーができたことで、またひとつ話題が増える。
「どんな家族になりたい?」
家族。そう言われて、実はすんなりと出てくる答えが無かった。
子供を本当に望む時期になったとき、それが叶う体だろうか。
何かあったとき相手の力になるために、いまからできることは、何だろうか。
お金はどれくらい貯めておいたほうがいいのか。そのために、いまから何を削るのか。
幸せな家庭を描くより先に浮かんだのは、生活していくにあたっての不安要素、自分の体への不安。
真っ黒な沼にでも足を踏み入れたように、喉がうまく言葉を紡げなかった。
私をよく知る人たちからの、不器用な私を案ずるその優しさもまた、胸をついた。
お料理は美味しく、景色は美しかった。みな笑顔で、変わらないものがそこにはあった。けれど変わったものも、わたしが思うよりずっと近くに、そして、遠くにある気がした。
ひとり車を走らせた家路は、いつもより少しだけ長く時間を感じた。
道中、なんだかお酒でも飲みに行きたい気持ちになって、財布の中のお札の数を思い起こして長らく訪れていないバーの名前を反芻してみた。
昨年といえば、流れに任せては度数も名前もよくわからないお酒を飲みにそこへ通い、不安な夜をやり過ごしていた。朝を迎えれば寂しさやら痛さやらが胸を押しつぶして、自分は太陽と一緒に生きたい人間なのだと薄々気づいても、なかなか抜け出せないままで。そうしていつの間にか一年が経っていたのだ。
痛む記憶を思いながら、アパートの駐車場に車を停める。
エンジンを切ると、なにかふっと胸のうちが温まる感覚がして、私は、はたと動きを止める。
それはいつかの思い出でもなく
描くこれからでもなく、ただ
帰ってきたのだ、という安心感。
思い出したように車から出て、エレベーターを上がり、部屋の鍵を開ける。
かちゃりと音をたてて開いた向こうに見えたのは
ベランダに干されている洗濯物や
台所、お昼ご飯を料理する際使ったフライパンと、木ベラ。
朝、水をやった観葉植物。
そんな、なんでもない生活の一部。
それにすら、ほっと胸が温かくなる、自分。
床にこんもり山となっている洗濯物は、今日昼間に取り込んだもの。お山のてっぺんにあったタオルケットからは、日溜まりの匂いがした。
すぅっと吸い込んで、ふっと張っていた心がまたひとつ綻ぶ。
未来を思うと、私はいつも不安だった。
自分の知らぬ所でたしかになにかが変わっていて、突如、どこかで選択をせまられる。二つ一緒には選べないときがくる。
そのとき何をどんな基準で選べばいいのか、守りたいものを守れるのか。
いつだって明日は中途半端に顔をのぞかせていて、そして一番怖さを感じている部分ほど、あいまいに見えた。
「どんな家族になりたい?」
懐かしい人たちは目を細めてそう聞いた。そこには変わらぬ優しさがあって、あのころより少しだけ大人になった私がいて。
数年前、小さな島からやってきた何も知らない私を温かく迎えいれてくれた場所は、やはりあたたかかった。
胸の中に陽だまりができたようなぬくもりを感じて、はたとする。
むしろなりたい家族のかたちは、今日食事をともにしたその場に、描かれていたのかもしれないのだと。
「君を娘のように思っている」
見知っているいないに関わらず、目の前のなにかを慈しむということ、手を差し伸べるということ。18の私はそれを体感して、いつしか自分もそうありたいと思い始めた。
きっと今日、私は潮風吹くその場所で、もうひとつの故郷に帰ったのだ。
私はどんな家族を築いていくだろう。
それはいつしか、私以外の誰かの故郷ともなりえるだろうか。
まだ少しだけおそれを感じながらも、描く未来はすべて暗闇ではない。
求めるものはきっともっとシンプルでも良いのだと、言い聞かせて、頷く。
ふわりと陽だまりの匂いの漂うアパートの一室、朝になれば窓から柔らかな朝日が差し込むだろう。
一日の始まりをこんなにもあたたかな気持ちで迎えられる今が、今はただ、たまらなく、愛おしい。
たびだち
夕日
「本日も、沖縄都市モノレールをご利用頂きありがとうございます」
近くもなければ遠くもない。
絶妙な距離と温度感のアナウンスに包まれる、モノレール。
その独特な揺れを感じながら、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
ビルと住宅の合間を、ゆったりと進む。
日曜の夕刻。
下を見やれば、道路に信号待ちの車がずらりと並んでおり
横断歩道には、小さな子供がふたり手をつないで、赤から青に変わる瞬間を足踏みして待っていた。
迷子いぬなのだろうか、どう見ても室内で飼われていそうな美しい毛並みの小型犬が、前日の台風で出来た水溜まりにダイブしている。
その横で、艶やかな黒髪の女子高生が笑っているのが見えた。
台風が過ぎ去ったあとの沖縄は、どんよりとした天気がまだ尾を引いており。夕刻になっても美しい橙は息をひそめ、鈍い灰色が空を染めて、この小さな島国をすっぽりと覆っていた。
それでも、右隣に座っている観光客らしきカップルは、肩を寄せ合い一冊のガイドブックを読み。
今日はあそこ、明日はあそこ、とプランは尽きないようだ。
左隣のおばあさん二人は、台風後の野菜の高騰を懸念しながらも「あるものを適当に使えばなんとかなる」理論を展開してわははと笑っている。
灰色の空の下でも、そこにいる人の顔はみな穏やかであり、ときに笑顔だった。
色彩は気持ちをも塗り替える。
これまで心の芯の部分にあったそんなワタクシ理論は
ものの数分で、空気中に溶けていった。
そうして一瞬だけ、窓の外の景色が、いつか東京でみた町並みと重なったとき。
思えばいくたびに晴れ間であった東京だが、目に写る景色は色鮮やかではなかったと。すこし冷ややかな記憶が呼び覚まされた。
春、夏、秋、冬と季節が巡るのとともに訪れていた東京。駅はいつも人でごった返し、けれどだれも自分以外の誰かをその目に映してはいなかった。
あの頃は、いちばん安心できる場所というのが家族でなければ自分の家でもなく誰かの家でもなく、どこか宙ぶらりんだった。
重苦しい日々の中にあって、けれどため息をつくたびに、何か大切なものが失われるのではないかという切迫感があって
細い糸を手繰り寄せるように毎日を生きていた。
中学生の頃、なんとなしに日本国憲法の本を読んでいて「最低限度の生活」という文面から「生活」という言葉の意味を考えたことがある。
活は活動の活。そして活きる、とも読める。
生が活きる。
中学生の頃のわたしは、生活という言葉の意味に計り知れない奥深さみたいなものを感じて、そして大人になれば、いつかそんな日々がくるのだと夢見ていた。
いま、24歳の私は、休日の今日ゆったりと起き、好きな料理をし、モノレールに乗って行きつけの店へ向かっている。
明日の仕事を思い不安でいっぱいになることもなく、はっきりとは見えない数日後の、 数ヵ月の予定にさえ、心踊らせている。
生活を彩るものとは、なんだろう。
20代も半ばに差し掛かる私が見つけた答えは
色彩でもなく、高価なアクセサリーや珍しい食べ物などでもなく、甘い嘘でもなく
モノレールから見下ろす街中
座った座席の右隣と左隣といった
あっけにとられるほどに身近な場所で生きる人たちの
まなざしや、温かな声のなかにあった。
右隣のカップルは、途中乗ってきた元気いっぱいの小学生をにこやかに見つめ
左隣のおばあさんは、かわいいねぇと、笑っていた。
冷たい風が吹くなかでも、眼に温もりをもって、誰かを映している自分でいたいと思う。
夕刻、曇天のもと。
がたんごとんと、いつかの記憶が音となって耳をつつき
そして、遠くなっていく。
まるで鼓動と呼応するような音を聞きながら
私はどこか、古く自分を知る懐かしい人にでも会えたような気持ちで。
自分のほんとうに大切なものに、向き合い始めている。
赤いあいつと緑のあいつ。
相変わらずの湿気で蒸し暑い日が続いている。
げんなりしながらも、食材を調達しにスーパーへ向かう。店頭に並ぶトマト、ゴーヤー、おくら等等の色鮮やかなこと。人にとっては殺人的な日差しも、彼らにとっては栄養なのだなとあらためて思ったりする。
強い日差しを浴びる日々を過ごして、夏が来たのだ、と思う。
今日の昼ごはんは、知り合いのコーヒー屋さんの店主おすすめ「トマトとおくら入りのめんつゆでいただく素麺」
うまいうまいと言いながらあっという間に食べ終わる。野菜になって生まれ変わるとしたら、トマトやおくらも悪くない。そんななんの発展もなさそうな妄想を、冷たい素麺を嬉々としてすすりつつ浮かべる。
素麺に埋もれる氷がまとう、滑らかな光がきれいで、真っ赤なトマトのつるんとしたフォルムは、小さな滑り台みたい。視覚ですでに満たされる15分間。
そういえば小さいころに、自分が蟻だったらトマトの上を滑るのになぁなどと考えたことがあったと思い出す。
結局大きなところはなんにも変っていない、5歳の夏のわたしも、24歳の夏の私も。
カーテンが揺れて、セミの声が聞こえて
夏が来た、と思う。
生ぬるい風が吹く室内、コップに注いだ麦茶に浮かぶ氷が、またひとつぱきりと鳴いた。
********