ありをりはべり

日常のひきこもごも

冬のせい

当たり前だが、冬は寒いものだし、毎年暑さと寒さのサイクルは周期でやってくる。
なのに、いつまでたっても余裕をもってこの季節を迎えることができない。

これまではそれを寒さに対応できない極度の冷え性のせいだと思っていたのだが
最近体質的な理由だけではないのだということに、気づき始めている。



冬の見せる色は、夏のそれとは違いすこし侘しい。



夕刻暮れゆく空も、鮮やかな橙ではなくどんよりと青紫がかったものが多い気がするし
道行く人も、グレー、黒、茶色などのトーンの低いものを着ている人が多い。

そしてキンキンに冷えた手足の先を布団に潜って暖める夜、
自棄に温かな記憶などが思い起こされて、触れる冷たさとのあまりの隔たりに、なんだか胸の奥の方だとか別のところにまで寒さを感じたりするのだ。


私は多分、だいぶ色々と余計なことを考えしまうたちで
常になにかしら思いに耽ったり考察したり空想したりしている。


冬は特に、それが顕著だ。

暗い空だとか
モノトーンの景色のなかに身をおいていると

温かで明るい景色のなかでは押しとどめられていたものがふつふつと浮上してきたりして
あぁ、またこの感覚がきている、と少し心がざわざわする。

それはちょうど心臓の位置の辺りで、黒くて小さな虫が小さな足を忙しく動かして、狭い場所をいったり来たりしているような
不穏な予感を抱く瞬間で。


だからそういうときには、なるべく温かな飲み物をのんだり
優しい人に会ったりして
なんとか胸のうちとの調和をとっている。




変わらぬ笑顔や穏やかな声や、美味しいものに救われて

まだ大丈夫、と思えるのだ。




それは同時に自分の弱さに気づかされ、目の前の温もりの尊さに向き合う瞬間でもある。


冬は、温かいもの、温かい空間、温かいひと。

そういったかけがえのない大切なものが、夏の頃とはまた違う深さで心に浸透し、日々を生きる活力になる。


不変であることは
自分の思う白や黒の境界線や痛みや幸せの区別を、やや曖昧にさせてしまうものだと思っている。


だから、冬は本当に苦手だけれど
穏やかな秋を越えて迎えるその寒さにも、少しだけ、一ミリほどは、感謝しているのだ。


温かさに触れ得るなら
煩うこともきっと悪くない


好きなひとと、好きな空間に癒された今日、
被った布団の温さにもほっとしながら眠りにつこうとする夜。


ほんとに寒さなんてまっぴらなのに、と文句をたれながら

あしたもこんなに寒かったらどうしよう、とげんなりしながら


傍らの温もりを抱いて
今日も何だかんだと、私は幸福なのである。

陽だまりの図書館


例えば、一緒にいるだけで心がぽかぽかになったり

すごく体にいいものを頂いたような気分になる

そういう人が、身近にいるだろか。

 

私は人に恵まれている。

周りには幸いにして(本当にこれはひとに自慢できるレベルで)、優しくて温かな人が多い。

 

なかには、奇跡のような相性というのか

ほぼ初対面でも、この人なら自然体の自分で向き合ってみたいなぁ、なんて思える人がいる。

 

わたしにとってそれは、通っていた専門学校の図書館の先生だ。

 

先生は、いつでもニコニコ笑っている

とてもあたたかな眼差しを持つ人である。


先生が赴任してくるまで、学校の図書館は医学とか看護の本や雑誌ばかりで彩がなかった。たしかに看護学校であるからにはそれが普通なのだけれども。専門書のなかでも、結構むずかしくて気軽には読めない部類の本が多かった。

医学書に関しては、自分なりに分かりやすい本を見つけている人もいたし、なんなら本好きなひとは大きな図書館のほうに通っており、普段から学校の図書館の出入りは少なく人はまばらであった。

思えば、賑わいそうな試験前でも利用する人がそう多くはなかったのを記憶している。

 

卒業を目の前にした三年生のとき、前任の司書の方が退職し、先生が赴任してきた。

先生は、赴任から一カ月ほどたった時点で看護にまったく関係のなさそうな文庫本や雑誌を少しずつならべ初め

私は訪れるたびに色を変えていく本棚に、いつも驚かされた。


それから少しずつ、変わっていく本棚を見るのが楽しみで図書館に通うようになった。


文庫本だけではなく、絵本や、どこかの国の旅行書など

ジャンルも国境も越えて、肩を寄せあう、色とりどり。

 

「全部が全部難しい本ばかりでは、せっかくの若い感性も育たないと思ったの。それに、あなたたちのお仕事は、感性を大切にしないといけないお仕事だと思ったから」

そのときのことを振りかえって、先生はふわふわ笑った。

 

学生の時は放課後に立ち寄ることが多く、窓の外は藍色に暮れている空か真っ黒な闇かのどちらかだった。

だが社会人になってもときどき訪れているいま、勉強したあとの昼下がりの図書館で、先生とぽつぽつおしゃべりをしたりする。

 

あたたかな日差しが窓から差し込む、その蜂蜜色の景色のなかで、学生の小さなおしゃべりと本のページをめくる音がささやくように重なり合っている。先生はそのなかでいつも笑っていて。

感性は大事よ、とたしかめるみたいに言葉にする。

 

そのまなざしも、そして先生が学生へ向ける思いも、やはりあたたかい。

蜂蜜色の景色の中でふわりと笑うその姿は、まるで陽だまりみたいだ、と思う。

 

訪れるたびに出会う温かさに、普段意地っ張りで固めた殻がゆっくりはがれおちて、ありのままの自分が自然と顔を出してくる。

気付けば今日の嬉しかった事とか悲しかった事とかおしゃべりしている間に、時間がすぎていくことも多い。

そして先生が話す感性の意味が少しずつわかりはじめている今、灰色の本棚に文庫本を並べた先生のまっすぐな思いに、やはり感謝の気持ちでいっぱいになるのだ。

社会人になってから、並ぶ本たちがほとんど先生の寄付によるものだと知り、さらに胸に滲みてくる。

 

どこか寂しく色あせていた図書館は、色とりどりの背表紙の本が並び、やっと呼吸を取り戻したように色づいている。

 

感性は、ゆっくりと育っている。

 

いつか先生が「一人でこうしてカウンターに座っていると、一人ぼっちみたいで、寂しくなるときもあるのよ」と話していた時、私はそんなのとんでもないと返した。 

過去にはぽつぽつとしか利用する人がいなかった図書館、いまや文庫本の棚の前で真剣に本を選ぶ人、先生セレクトの医学書を嬉々として借りていく人、黙々と勉強する人、さまざまである。

 

こんなに温かくて人が集まる場所になるなんて、先生が赴任する前までは考えられなかった。


先生はたくさんの生徒に囲まれているんだよ、一人なんかじゃない。

 

そう言った私を、先生はとてもとても嬉しそうにほほ笑んで見つめた。


 

仕事を始めてから思ったのは、人の手や声でぬくもりを伝えることは本当に難しくてそして大切なことだということだ。その原点となる感性を育てることには、これからも貪欲でありたい。それは、自分の信じるものを学生へ届けようとした先生から、学んだこと。

 

ふわふわ笑みがこぼれる

陽だまりの図書館は、きっとこれからも学生たちの笑顔で満たされていくだろう。


そうであってほしい、と


私は、大好きな蜂蜜色の景色に出会うたび切に願っている。

 

AからBへ行くまでに

文章を書いているといつも思うのは、タイピングのスピード、改行のスピード、変換のスピードが自分の思考の早さと合わない、ということだ。



私は、だらだらながったらしく文章を書いてしまうというくせがあって(つまりはまとめるのが下手だと言うこと、ちなみに会話でもそれは顕著)

AがBである。

という誰かにしてみればごく単純に説明できることでも

わざわざAとBとのあいだに中間地点のCやDをつくり、ときにEとかFもつくってしまう。

そのせいで、このブログもブログといえどもひとつの記事が長めらしく
さくっとかいてるふうには思われないのか
「だいたい書くのにどれくらいの時間をかけているのか」という質問を何回かされたことがある。


こういう質問をされたとき、
ちゃんと考えて文章書いてますというような、無駄にかっこつけたい気持ちが芽生えて
「2.3日は構想練ってから書いてます」とか「2時間はかかります」とか言いたい自分がいるのだが

実際のところは
9割がたの記事が15分から30分以内で書いている。

私の場合「いま、書けそうだなぁ」というタイミングがふっとやってきて
それが仕事中であるとか遊んでいるときという場合を除いて、書ける環境であるときに、気ままに書いている。




文章をかける体勢になると、頭のなかには言葉や情景が滝のように流れてくる。

ときにキーボードを打つ自分の指さえも追い付かないはやさで、情景と言葉とが結び付き、そして瞬時にまたあらたな結び目をつくっていく。
大きな編み物を何かに急かされるように編んでいく。
文章を書く時間というのはわたしにとってそんなイメージである。

こういうことを話すと、そんなに早くかけて凄いですねといってもらえることもあるのだけど


このやり方は
きちんと文章の構成を考えたり、読み手へ配慮した表現を考えたり、ということをまるっきり放棄したやり方なので
言っている自分は、読んでくれている方たちに対して、ひどく申し訳なくて恥ずかしい気持ちになる。

だから、実は一つの記事を書いたあとの
「修正」の時間こそが、私にとって一番大切な時間なのだ。


よみ返すと、読み手に配慮していない言葉、表現に度々気づく。
それは文と文の繋ぎ目や
改行のタイミングの不自然さであったり
読み手の年代や性別やその他の背景によってはかなり理解しづらい言葉、情景であったり。


書き手である自分は当初なかなかそれに気づけない。
だからひとつの記事をアップする前に何度か、

そしてアップしたあともさらに数日たって読み返してと、自分自身が読み手の立場になるなかで、ちまちまと修正を重ねている。



しかもだらだら文を書いているわりに活字が苦手で、本だって一年に3冊も読まない。

こんなに書いてて苦手はないだろうという人がいるけれど
本当に活字が好きで自分の表現を持っているひとは、
ほわほわしてつかみどころのないもの、
胸に迫り来る感情や情景を、もっと最短の言葉で伝えることができるものだと思っている。

この文章の長さは活字が苦手ゆえだと自分ではかなり納得しているし、たぶん間違いない。


そして、最近は文章のくどさとともに相棒の不具合にも悩まされていて、これが自分にとっては結構深刻なものである。

もともとパソコンで打っていても、タイピングと変換のスピードが思考に追い付けないことが多いのだが

先日は昨年から調子の悪かったパソコンがさらに亀のような動きになり
思考と指が追い付いても、パソコンが微動だにもできないという事態が度々発生している。
それで最近は携帯で文章を書いているが、人差し指がもうそろそろ限界である。

いい加減、新しい相棒を探さなければならないなと
預金の残高についてそう思いを巡らせているが。

いや、まずはもっと本を読んで、簡潔に文章を構成する技術を身に付ける方が先だろうと。
もっともすぎる言葉が頭に浮かんだ。


学生のとき、国語の先生は「一番言いたいことは先に書いてからはじめるのよ」と言っていた。
私が今回一番伝えたかったのは、この記事のスタートの4行だ。

先生、やっぱり私はまだくどいままです、と

切なくなるくらい悪かった現代文の成績を思い出しながら、先日友人から借りた本を手に取ってみたのだった。

キャベツの朝

 

音楽はだいたいなんでも聴くし、自分の好みの音楽に出会うと、堪らなくうれしい。

 

なかでもとくに、季節やある特定の時間帯だとか景色だとかを思わせる曲には惹かれる。

その日、その時でぜひ聴かなければと。自分が思うイメージの中で音を楽しむいつか、を想像して、もう待ち遠しくてしかたなくなるのだ。

 

 

一日の中でどの時間帯が好きかと言われれば、間違いなく朝だと答える。

 

終わりと始まりがものすごい早さで訪れる時間。

そのせわしなさも、でもどこか夜が抜け切れていない空気感も好きで。

 

大好きな朝の時間にきく音楽も、やはり特別なもの。

 

朝ごはん。

冷たいフライパンがコンロの火で熱され、油と出会ってぱちぱちと音を立てるのを聞きながら

卵が軽やかな音をたてて割れて、そのまるいフォルムが一瞬にして崩されるのを見ながら

 

お気に入りの曲に、じんわり温かな気持ちになる。

休日の朝の台所特有のゆるゆるした空気感のなかで、自分の思う朝ぴったりの音楽に浸りつつ、のんびり包丁のリズムを刻んでいく

その時間がたまらなく好きなのだ。 

  

不規則な仕事をしていると、大好きだった朝を過ごせる時間は本当に限られている。

だから今日のようにゆったりと朝を迎えられる日には、前日夜更かしをしても嬉々として早起きをする。

 

台所の窓を開けて、先日大家さんから頂いた大きなキャベツをまな板にのせる。

窓からの朝日を受けるキャベツの葉は、柔らかな黄緑。包丁がきらりと光って、繊維をたちきる瞬間に瑞々しい音と香りが立つ。

もくもくと千切りをしているなかで考えるのは昨日久しぶりにやってみた裁縫のこと。あの無心になれる時間、けれど何かを新しく生産できるひととき。

 

そういえばいつか読んだ本のなかで、恋に不器用な男性が編み物にはまるという話があったなとふと思い出す。何かに取りつかれるように編みまくっていた男性のお話を振り返りながら、いまならなんとなく、彼が編み物にはまった理由がわかるなと思った。

 

手元では包丁が単調な動きを繰り返して、でも一枚の葉っぱは細いせんぎりへと変わっていく。

編み物も裁縫も千切りも、なんだか似ている、そんな気がした。

 

そういえば、今日はおすすめの朝の音楽を紹介する予定だったというのに。

朝のゆるゆるな空気のなかで、すっかり当初の予定すら忘れてしまっていた。


恐るべし、朝。

けれどそれでこそ、わたしの大好きな朝である。


 

ではでは千切りキャベツを冷蔵庫にしまったところで 

遅ればせながらおすすめの朝の曲を。

 


シュリスペイロフ「朝ごはんMV」 - YouTube

 


Beatnik Sessions - Lucy Rose - All I've Got - YouTube

 


 

アイデンティティ

ロックが好きです。


そんなことをいうと、大抵の人に意外だという顔をされる。
本が苦手です、と答えるときも一緒。
落ち着きがなくていつも焦ってるんですと打ち明けても。



以前はずいぶん、周囲からの「こういうはずでしょ」像に左右されていて

音楽の趣味を聞かれてもそれとなく濁して、

カラオケでは、いきものがかりだとかaikoとか、全くわからないのにわざわざ予習して歌ったり

本心ではそこまで惹かれてもいない本をなんとなく買ってみたり

落ち着いてるふうを装ってみたり
いいこちゃんでいようと、したり。

ほんとうのじぶんってなんだっけみたいな
思春期のときのような、いやもしかしたらそれ以上にアイデンティティについて悩んでいたかもしれない
なんだかちぐはぐな毎日を過ごしていた。


本当はたまには甲本ヒロトを思い切り歌いたくて
本が苦手で漫画がすきで
計画性がなくて適当でぎりぎりになって焦るのが、私で。


友人にはすこしずつ仲良くなってゆく課程のなかで
そういう本当のじぶん、をさらけ出していった。

みんな最初は驚くけれど、
たまに、なんかそんな気もしてたよーなんていわれたり。
やっぱり好きなことを話してるときはきらきらしているねと笑ってくれたりして。

特にライブなんかで、自分が好きなバンドを同じようにすきでいる人たちとわーわーと騒いでいると
もうなんだか好きなものを好きと言わずに我慢していた時間が、とても勿体ないものだったということに気づかされて
そのたびに、やさしく胸を打たれていた。

ちぐはぐな毎日のなかで
すこしずつ垣間見せて行く自分らしさ

次第に優しくうけいれてもらえるようになって
好きなものを好きだと、口に出して語るなかで

そのときどきで出会う
「あれ、案外こういうかんじなのね」とちょっと呆気にとられる、幸せな時間。

「こういう人じゃなきゃ」
って別に義務でもないそんなことを必死に守ろうとして

まるでそうじゃなきゃ嫌われちゃうかも、みたいに怖がっていた自分

あれはなんだったのかしら、なんてふと思い出せる今日この頃。


いま、わたしの車内でのBGMはチョモランマトマトで、
愛読書は就職難で喘ぐ女子大生が主人公のシュールな少女漫画で
数キロ目的地を過ぎたあとに迷っていることに気づく方向音痴ぶりを、タイムリーに発揮しているところだ。


おもえば人に嫌われることを極端に怖がるようになったのは
過去の思いでのあれこれかもと。思い当たるふしはあるけれど
それはもう過去の産物。

どこからが始まりで終わりなのかわからない不安定な時間のなかでも
私は、新しいものを生産するチャンスをつねに握っているのになぁと
ふと思って、はっとする。


そういうあなたが嫌いだと言ってくれたのも
そのまんまで大丈夫なんだよと言ってくれたのも
そのとき本当に信じていた大切な人。

人がとても怖くなったときもあったけれど
私はやっぱり、人が好き。


私らしさは、いつも流れていく時間のなかにも、ふと立ち止まる一瞬のなかにもある。






大丈夫、という魔法のような言葉を抱いて
ゆっくりとすこしずつ、自分を打ち明けていけたらいいなと思っている。










最後に、大好きなシュリスペイロフのこの曲を。

https://www.youtube.com/watch?v=M1OZFOCcLbg&feature=youtube_gdata_player

哲学の始まり

 

以前ブログにも書いたのだけれど、私は話し方が沖縄の人らしくない、標準語寄りらしい。周囲が沖縄なまりや方言を使うなか、それは少し特異に映るらしく、何故か標準語っぽいしゃべり方をするだけで頭がよさそうに見えるなどと友人は言っていた。

わたしの場合はちょっとかための文章を書いていたりもするので、余計に真面目な話ができそうな人だと思われるのか、なんだか哲学的な質問をされることが、時々ある。

 

実は、そのたびに困惑している。

 

たぶんそういう哲学的な話をする人の頭のなかには、たくさんの引き出しがあって

こういうワードにはこういうワードが

というように、幾重にも線が繋がるように関連図ができているのだろう。

しかもその幅がもう、宇宙だとか死生観だとかものすごい次元なのである。

 

過去に「時間とはなんだと思いますか」

と質問をされた時、私はいまここにあるもの、としか答えが浮かばなかった。

それよりも、昨日作ったカレーはどれほど美味しくなっているだろうかと、そんなのんきなことにやけに真剣に思いを馳せていたのである。

 

だって人として生まれたことで時間に縛られてしまう云々とか、何次元がどうでとか考えているあいだにもご飯は炊けるし、バスは来ちゃうし、あくびが出たら自然とあったかい布団に向かっていくのだ。

そして朝隣に寝ている誰かさんを見て、あぁなんかよくわかんないけど幸せ。とか思えたりするのである。

 

いま自分が目の前にしているぬくもり、息づいているもの。そういったものはものすごい早さで心に浸透していく。そして「なんかいいよね」とか「なんか嫌だね」っていう、いやだからなんかってなんなのって訊きたくなるけど、三秒待てばちょっとじわじわ分かってくるなぁというような。たった三文字で中途半端に思いが伝わる感じも好きなのだ。

 

もうただ脳みそがすっからかんで性根がだらしなくて適当なだけなのかもしれないけど。そう言われても反論できないけれど、そういうあやふやなことに確かに救われる瞬間があって、その言葉に表せられないぬくいものを、同じように、言葉にしなくても分かち合える人に出会えた時、なんともいえない幸福感に包まれたりするのだ。

 

でも、いつか。

私の頭のなかの引き出しが増えていって、あみだくじみたいなやっつけ仕事じゃなくって、ちゃんと物事の線と線とを結べるようになって

その時々で訪れる哲学的な質問と、私が生きる日常とが自分のなかで結びついた時

 

カレーを食べながら、皿を洗いながら、バスを待ちながら、あくびしながら、私は何かをむんむんと思考するときがくるのかもしれない。

 

なんだかそんな私は全く想像できなくてちょっと自分でも笑ってしまうのだけど

 

それもそれでなんだか、おもしろそうである。

 

 

なんかってなによ。

 

 


きっと、その問いを真っ直ぐに自分に投げかけた時が、私のなかでの哲学のはじまりなのかもしれない。

 

 


蓮沼執太フィル「Hello Everything」LIVE - YouTube

 

andymoriについて

 

昼さがり。

ぶらぶらと那覇市内をさまよっている際、ふとandymoriが聞きたくなった。携帯でちょうど開きっぱなしだったyoutube。すいすいスクロールしながら曲選びをしていたのだが、探しながら「そういえば解散しちゃったんだよなぁ」と寂しい気持ちになった。

andymoriは、初めて自分でチケットを買い、一人でライブを見に行ったバンドだ。

それまではライブといったら父と一緒に行っていたし、地元ではチケットをコンビニで買うというシステムがなく、ライブハウスの知り合いのおじちゃんから直接買っていた。なので最初はLoppiってなに、ファミポートってなに状態だった。おそらくコンビニでは挙動不審しすぎて目だっていたんじゃないかなというくらい、いま思い出しても私のチケット購入までの道のりは険しかった。

 

ライブを見るために列にならぶなんてことも知らなかったし、これいったいなんの列なんだ、といぶかしげな思いで列の横を通り過ぎライブハウスに突入し、案の定、係りのお兄さんに制止された。

「お姉さん、順番ですよ」と言われた時「いや、私、並んでないので」と右手に思い切りチケットを握っているくせにとんちんかんなことを言ってしまい、お兄さんを困惑させた。

初めて入るライブハウスで、しかもそのデビューが一人参戦。音楽聴きにいくのに参戦って何だと、色々なサイトや父愛読のロッキンオンジャパンなどでライブレポートを読むたびに思っていたけど、まさに戦場に乗り込むような緊張感をそこで体感して、ああきっとこのかんじなのだと納得した。

 

けれどそんな緊張感は、隣のひとと肩をくっつかせながら迎えた暗闇のなか

響いた鋭いギターの音色に、すぐにかき消されたのである。

 

三秒前までざわざわと騒がしかった会場内。まるでそれまでの囁きや靴の音や、それぞれが手に持つプラスチックコップが指につぶされて小さく鳴いた音、それらが全部嘘だったかのように、その一音が響いた途端、一瞬で静まり返った。

 

「バンドを組んでいるんだ みんなに聞いてほしいんだ」

背中から真っ白いライトを浴びて始まったのは「ユートピア

小さなライブハウスで初めて生で聴く小山田壮平の歌声はただただものすごかった。

透明で力強くてしなやか。表現がひとつではしぼれなくて

鳴り響くギターも、鼓動と呼応するみたいに刻まれるドラムも、絶対的な存在感を示す声と、絶妙な間合いを持って音を重ねていた。

 

ライブは緩急を繰り返しながら進み

何度も何度も聞いたせいで耳に染みついていたイントロが聞こえ始めた時、思わず小さく声を出してしまった「1984」

 

 
andymori "1984〜ONLY SSTV EDITION〜" - YouTube

 

andymoriは夕暮れがとても似合うバンドだとおもっている。一日の中でゆっくりと景色が移ろっていく、その微妙な合間。特に「1984」はそんな「どちらでもない」瞬間に合う気がする。

 

「クレイジークレイマー」「革命」「すごい速さ」

と続いて、アンコールでは「16」と「Life is party」。

 

 
andymori "革命" - YouTube


andymori "すごい速さ" - YouTube


andymori "Life Is Party" - YouTube

 

 

もう言葉通り感動で胸がいっぱいになってしまって、帰りにドリンク券で買ったオレンジジュースは、喉はからからなのに全然飲めなかった。

帰りのバスの中で、まだ胸はどきどきしていたし、はやくこの感動を誰かに伝えたくてどこかに残しておきたくて、堪らなかったのを今でも覚えている。

 

音楽を聴いて、あんな気持ちになったのは初めてだった。

 

学生生活を送る中、ライブのあともずっとandymoriを聴きつづけていた。

通学途中、勉強の合間、帰り道。どの瞬間にも彼らの音楽があった。

けれど実習と試験勉強が詰まりに詰まっていた時期、私は少しだけ音楽を聴くことから離れてしまった。

そして学業が落ち着き始めほどなくしたころに、andymoriが活動休止することを知った。

 

やはりショックだったけれど、あれだけの感動を与えられる人たちなのだから、またきっと帰ってくるはずだと信じていたし、願っていた。

 

 

だから解散するなんて思いもしなかったし、それを知った時は、本当に本当に、悲しかった。

 

 

 しかし、時間を経て私の関心も少しずつ変化していってしまった。

学校を卒業し仕事につき、お金や時間の使い方をだんだんと覚えてきた私は、各地の様々なライブに行くようになり、以前は聴かなかったようなジャンルの音楽も聴くようになった。

やがてandymoriを夢中で聴いていたころの事は少し前の思い出、みたいになっていた。

 

だが今日久しぶりにその音と声を耳にしたとき、とてもとても嬉しくてかなしい、なんともいえない気持ちになったのである。

 

数カ月ぶりに聞いたandymoriは、全然懐かしいという気持ちにはならなかった。

初めて彼らの音楽に出会ったときのような熱い衝撃が胸に押し寄せてきて

画面を通して届くサウンドに、ただただ、圧倒された。

 

心細さを抱いたままぽつんと立っていた20歳の私は、一瞬にして彼らの鋭くて温かな音色で救い出されたような気持になった。

そして今もまた、数年前に受けたあの衝撃と、包み込まれるような温かさを、紡ぎだされる音楽から感じている。

 

この心情をどう表せばよいのか上手い言葉が見つからないのだけれど、言葉に表せない気持ちが溢れそうなほどに生まれたあの夜はやはりかけがえのないものだったのだと、思う。

 

きっと彼らの音楽はこれからも、彼らの音楽を、彼らとともに感じた人々のなかで、その熱を持ったまま生き続ける。

 

まだ曲の余韻から冷めやらぬ胸の音を聞きながら、確信にも似て、そう思った。

 

 

 

大人になって 大人の顔をしている

君のありのままの笑顔を見せてよ

それだけでいいよ 今夜はまだ眠れない気分

 

かけがえのない感動をくれたandymoriの音楽へ、感謝を。

 

大好きな「クラブナイト」

 


andymori「クラブナイト」〜SWEET LOVE SHOWER2012〜 - YouTube