ありをりはべり

日常のひきこもごも

煎餅が、すきだった。

ほんとうは、煎餅会社に就職したかった。


じいちゃんばあちゃんこで、小さいころから祖父母の家に通っていた私は、中学、高校になっても学校帰りには必ずと言っていいほど祖父母の家に寄っていた。いつもちゃぶだいの上にちょこんと鎮座する菓子箱を開けるのが楽しみで、なかでも自分の中でのヒット商品は煎餅だった。

沖縄で煎餅を作っているところといえば塩せんべい屋くらいかと思うのだが
私が好みであったのはそういう特産品ではなく、新潟の会社が作っているごくポピュラーなものたちだ。

ぱりっと空気を裂くような軽快な食感がとにかく好きだった。
だしが強かったり、醤油の甘さや辛さが商品によって全く違っていたり、はたまた殆ど味付けは塩だけらしいというのに香ばしさがそれぞれ全く異なっていたり。

理想としては本土の手焼きの煎餅屋さんで働いてみたかったが、自分は職人側ではなく煎餅の美味しさを伝える側のほうが向いているであろうと思い、できれば売り込むほうを経験してみたかった。

そうなるとまずスタートは大手で営業やら広報部門やらに入ることを目指したほうが良いかと考え、希望は新潟の大手二社に絞り、高卒よりは大卒のほうが就職に有利かと高校は普通校を選んだ。


高校二年の秋まで俄然その気で、担任に、内申点を上げることを考えある程度得意で好きな科目を選んだほうが良いと薦められ、思い切り文系の科目選択をした。
煎餅会社に就職したいと思っていることは、高校三年に上がったときに両親に話そうと思っていた。

だから、まさかこのときは突然やってきたリーマンショックで家の経済ががた落ちし、大学進学を諦めてほしいと話されることになるなど、想像もしていなかった。

最初両親からその話をされたときは、既に家のなかに暗雲が立ち込めはじめていた頃でもあり、なんとなく嫌な予感はしていた。

頭のなかでは、大学に行って、大手の煎餅会社に就職、キャリアを積んだらより手作りに拘る所に入り、最終的には米農家の嫁になる。
という未来予想図がぐるぐると駆け巡って、けれどそのどれも明瞭な絵を描けず、くしゃくしゃに歪んでいった。


母は非常に申し訳なさそうに、いまのうちの経済状況では就職するか資格を取りに専門学校に行くか、それしかないと言った。
それもその資格というのが看護師しか無理だと言われて、私は凍りついた。


わたしは中学のころ年に二回入院したことがあったのだが、そのとき関わった看護師が非常に冷酷で担当に当たられた日はいつもびくびくとしていた記憶があり、看護師そのものがトラウマだった。
だから絶対に自分は看護師にだけはならないと心に決めていて、勿論良い人もいたのだがその一人の看護師のイメージが強烈すぎてかなりの不信感を抱いていた。

けれども、小さな島しか知らぬ高卒の女子がそのまま社会にでて、上手くやっていける自信など微塵もなく。
そこで挫折して親に頼るなどあってならない、絶対にそれは避けたい。そう思えば国家資格を得るほうが格段に、家計を支え、生きていくには確実な方法であると思った。

やはり絶対になりたくない職業ではあったが、
朝も夜も働く母が、空いた時間を見つけて看護師以外の資格についてもせっせと調べていた姿をときどき目にしていたし、
これがそれを経ての結論だと思えば頭ごなしに嫌だとは言えなかった。



こうして、私は渋々ながらも看護師になることを決めた。



勿論全く目指していた道ではなかったし、なんなら何があってもなりたくないと思っていた。
専門学校の入試は、最初は推薦で受けたのだがまだ反発意識がありやる気が無く、案の定面接から酷い有り様で当然のごとく落ちた。
それからやけになってプチ家出をするなどの僅かな反抗をし、母には泣かれてしまい、反省して今度は一般試験を受けることにした。

沖縄は地元就職意識が強く、なかでも看護の道を目指す人は多い。且つ滑り止めで何校も受けたりするので専門学校の倍率は異様に高い。私が受けたところは県内でも合格率が高く、なにより学費が安かった為特に人気だった。

思い切り文系科目を選択していたので、数学なんて久方ぶりだった私は死ぬほど勉強した。推薦に落ち一般試験を受けると決めてから、入試まで残された日数は一ヶ月であり、もともと頭が良くなかったのでこのときばかりは親にたのみ塾に通った。
最後の方は、講師の先生の好意で自分の勉強のあいまに小学生を教えるかわりに月謝を半分ほどに減らしてもらった。あとから聞いた話だと殆ど貰っていなかったらしい。


人生でこんなにも真剣に勉強にとりくんだのは初めてで、わからなかったことがわかっていく過程は、わくわくして楽しかった。気づけば勉強をすることに夢中になっていた。

あっという間に、けれど濃密に過ぎていった一ヶ月、迎えた入試当日。出来はどうだかはっきりしなかったがやるだけのことはやれた。
合格の通知を受けたときの嬉しさはいまも覚えている。

それから色々ありながらもなんとか専門学校を卒業し国家資格をとり看護師になり、もう新人といっていい年も過ぎてしまった。


やっぱり自分に命が関わる仕事なんて無理だとたまに落ち込んだりしながらも、仕事は楽しい。
体のメカニズムを学ぶことは、患者だけでなく、自分、そして自分の周囲の人々の健康を支えることにも繋がる。
車椅子を利用している人が町中で困っている様子であったら、躊躇わず声をかけることが出来る。事故や災害時等にも、知識を活かせる場面があるはずだ。


いまでも、絶対になりたくないと思っていた職業になり、それに遣り甲斐を感じている日々が不思議でならない。


煎餅会社に就職していたら、わたしはどんな人生を歩んでいただろう。
今頃、田園に囲まれた土地で米農家の嫁として奮闘していたかもしれない。それもそれで面白いが。

予想外の道に飛び込んだ私は、予想外の出来事に多数直面し、迷いながらも今の居場所にたどり着いた。
イレギュラーな選択は、葛藤とともに私にかけがえのない体験をくれた。辛い経験も含めそれは贈り物にすら思えて、あのリーマンショックにすら感謝を覚えている。
生活も苦しいなか、資格を取るため専門学校に通うという選択肢をくれた両親には、頭があがらない。
初めてのボーナスを全額あげたとき、とても喜んでくれ、嬉しかった。今後も少しずつ恩を返していけたらと思う。



日々、様々な患者さんに向き合うなかで一番大切にしていることがある。それは「常に患者の目線を忘れないこと」である。

日常とはかけ離れた場所で、たったひとりで病気に対しての不安を抱え過ごすことが、どれだけ苦しいか。私は自分の経験からその感覚を思い起こす。
多くの患者はおそらく、病気と診断されたときに心にある種の傷を負うものだと思う。だからこそ、そこで関わる人間の言葉、行動の影響力は相当なものであろう。

丁寧な対応を心がける。シンプルなことだけれども、きっと入院していた側だったからこそもてる視点、できることがあるはずだと考えている。




この数年を振り返り、未来を想像し
ときには思いもよらぬ選択肢を選んでみても良いのかもしれないと。

ぷち家出やら、煎餅への熱い思いやら、記憶をたどるたびに少々照れ臭いが

聴診器を首にかけ働くいまを、悪くないと、おもっている。