ありをりはべり

日常のひきこもごも

暮らす

3月はじめごろから、色々と縁があって同棲のようなものがはじまっている。


これまで一人で営んでいた生活に、他者の生活が重なると言う、日常でありながら非日常な日々。

食事は自炊が殆どとなり、外食だらけだった私の生活はそれだけでもがらりと変化を見せた。

仕事終わりの、もはや日課のごとくな悩み「今日は何を食べにいこうか」が
「今日は何を作ろうか、否、作れるのか」
に変わるということ。

元々料理は好きだったし、そう作れる品目が少ないとは思っていなかったが
そんな勘違いは一ヶ月ほどで撤回され、いまやクックパッド先生には頭が上がらない状態である。

そして食べるのが自分だけではないと言う妙な責任感から失敗することが怖くなり
ときにそれが空回りしてわけのわからない間違いをしたりする。

実家の母はやや特殊な感性で創作料理を披露するひとだけれど、あの冒険心すらもちょっとだけ、羨ましい。


びくびくしながらキッチンに挑む毎日は
毎日が「ちゃんとできるのか」といったまるでテストみたいで、たまに疲れてしまうのが正直なところ

だけれど
料理の過程にあるほんの少しの期待に出会うたびに
綱渡りの末の食卓も、なんだかんだでやはり毎日の楽しみなのだ、と思う。

湯気を目の前にして向き合う相手の顔が、ふわりと緩んでいくのを見て
小さな緊張の糸がほどけてゆく。

繰り返されていく日々のなかにある
これまでにはなかったなにか。
幼い子供のように、日常の隅っこにさえ一喜一憂する毎日は、それだけで楽しい。



この間みたテレビの街頭インタビューでは「夫と過ごす休日が苦痛」だとか「家に帰ってこないでほしい」とか
なかなかシビアや主婦のかたがたの声が聞かれた。
この生活がこれからも続いていったとして、いつかわたしもそうなるのだろうか。


お昼時、ピーマンの肉詰めをつくろうと思い立ち、タネをこねる過程でふと思い出されたそのテレビ画面。
あのとき写し出されていた主婦は、笑いながら夫への不満を話していた。
けれどふと自分の隣を見やれば、せっせと切ったピーマンに小麦粉をまぶしてくれている彼がおり

たぶんそのとき私は笑ってしまったのだけれど

きっとテレビで見た主婦の方とは違う、気の抜けたようなだらしない笑顔だっただろうと思う。


まだ、私にとって毎日の食卓は小さな緊張の連続で

期待と不安が混じりあった湯気のなか
ただいまと言う声に、おかえりと答える一時を

気づけばいつも心待にしている。




頼りない日々を手繰りよせて、少しでも、確かな繋ぎ目をつくれたら。

もやのかかったそのむこう


小さくもあたたかな、夢を描いている。