ありをりはべり

日常のひきこもごも

ベクトル

 

時々思うのは、いま自分は人生のどの地点にいるのだろうかということだ。

 

例えば、あと数か月後とか数年後だとかに、大きな事故にあったり病気にかかって亡くなってしまえば、いま生きているこの時間は終わりを目の前にした時、ということになるし

その反対で、もしかしたらなんだかんだで100歳くらいまで生きれるのかもしれない。

 

この先、そう遠くはない未来で大きな不幸が待っていて、自分の人生が180度変わってしまうかもしれないし、ただただ穏やかで幸せな時が流れる数十年があるのかもしれない。

 

未来を思うと本当に果てはなくて、私はあれこれ考えるたびに途方にくれる。

 

そのあまりの途方のなさに、考える意味すら疑問を抱くけれども。いつも懲りもせずプライベートや仕事のあいまで未来について思考を巡らせる自分はいて

それはなんだか滑稽でありながらも、過去の痛い記憶を思い出せば、やはり自分にとってはかけがえのない作業であることを痛感する。

 

明日生きていることの確証などどこにもなくて

気づけば幾重にも重なった偶然が偶然を呼び寄せて

「もしかしたら」はいつだって「もしかしたら」じゃなくなる可能性を持っている。

 

祖母が亡くなった時、大切なひととの別れを知った時「なぜこの人が」とか「なぜ今なのか」という思いが強く湧き上がって、胸が締め付けられた。

そして不変などないのだということを、知った。

 

ゆっくりとあたたかさを取り戻し始めた沖縄。降り注ぐ日差しは、この南の島にしては珍しく柔らかい。道行く人の表情も冬に見たそれとは少し違って、花咲く前の蕾のようなあたたかさをたたえているようにみえる。

散歩の途中、すれ違う子どもが笑ってかけていく。こんな穏やかな日々が少しでも長く続いてほしいと願う自分がいる。

 

未来はいつも不安定で、確証などなくて

本当の約束は、できない。

けれど、小さな現実を繋ぎ止めて、頼りない可能性を思いながらも未来に向かっていくことはできる。

 

いつやってくるかわからない終焉を思って生きることは、見方によっては窮屈そうに思うかもしれない。

だが基本的にマイペースの適当で、難しい問題に向き合うことを避ける傾向の私にとっては、たまに水道の蛇口を閉めてぼうっと天井を見上げるような、そんな時間も必要なんだと思う。

 

見えない明日を思うとき。傍にはいつも、日常の隙間に小さな願いがあることに気づく。そうして何かを願える幸福というものに向き合う。

そして願うことはそれだけで楽しくて

きっと確証などなくても、人は幸せになれるのだと思う。

 

これからの私は、何を願うのだろう。

何と出会い、痛みを知り、笑っていけるだろう。

 

途方のない向こう側にある何か。

 

私はいつだってそれが怖くて、愉しみでならない。