ありをりはべり

日常のひきこもごも

夜の向こうへ

 

 

実家は小高い丘の上にあり、二階のベランダからは、数キロ先に海が見下ろせる。

 

小学生の頃の話だ。

ベランダに出て洗濯物を干していると、海側にあるこんもりとした林のほうから、翼が風を切る音がした。音としてかなり大きい、ということはソレもまた、相応の大きさなのだろう。急激にこちらへと上昇し接近してくる音に、ぶつかるまいととっさに身をかがめた。目を伏せながら、大き目のコウモリかしらとぼんやり考えていると、頭上の物干しざおに何かがはまったような音がして見上げてみる。

 

ぎょろりとした大きな瞳と視線が合って、はっと息をのんだ。

 

夏の夜空の深い深い闇と、無数に散らばる星を背景に、ソレは居た。鋭いクチバシが月明かりに照らされて、なめらかで、それでいて冷ややかな曲線を闇に浮かび上がらせていた。私の顔をすっぽり覆えそうな翼で、潮を含んだ風をばさりと仰いで、あたたかいものが頬を撫でた。

 

ワシだ、カンムリワシだ。

 

暫くの間、お互い微動だにしない時間が流れた。満月になりきれない中途半端な月が、爪でひっかけばすぐにちぎれそうな薄い薄い雲に隠れて、時折気まぐれに顔を出した。それはまるでいたずらっこのようで。淡い光だけが、彼を照らしていた。

 

突如、カンムリワシがこちらに顔を向けて、ぎょろりと刃物のような眼光を向けてくる。

しかし数秒後には、なにかをあきらめたかのようにふいっと海側へ顔を向けた。

獲物を探しにきたのに、なーんだ人間の子供か。

そう言われたような気がした。

 

怖くて、でも目を離せなかった。この時の私と言えば、怖いものといえば毎晩繰り広げられる母の怪談話くらいで、血の通った怖さを体感するのは、これが初めてだった。

 

手にじんわり汗をかいたまま数分が過ぎたころ、わおーんと大きな遠吠えが聞こえた。飼っている番犬が、見知らぬ来客にようやく気づいたようだ。

別れは、あっけないものだった。

夜空を飲み込むように翼を広げたかと思えば、大きな体がふわりと宙に浮かぶ。カンムリワシは、小さな私を一瞥したあと、星々など恐れ慄くような鋭い眼差を携えて、また夜の向こうに消えていった。

 

 

あれから、約20年が経った。

アパートの部屋から見下ろせるのは、青い海ではなく、どこかぼやけた色をした街のあかりだけだ。夏の夜、髪をなでていた潮風は、いつのまにか排気ガスに変わった。髪も身長も、あの頃よりずいぶん伸びた。

 

故郷が、好きではなかった。

とても弱くて、いつも何かに隠れていた子供時代を思い出すから、置いていけるものは置いてきた。

それなのに、似ても似つかないような景色の中にあっても、時々あの夜の出来事を思い出す。

それは何かの警告のようであり、母が子を諭すような柔らかい声にも思える。

 

 

怖くて、目をそらせない。

 

 

近くて遠い場所にあって、まだ、翼が風を切る音を聞いている。

 

 

 


くるり - 琥珀色の街、上海蟹の朝 / Quruli - Amber Colored City, The Morning of The Shanghai Crab (English ver.)