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ありをりはべり

日常のひきこもごも

式日

「女の子は、綺麗でいないとね」
普段口下手な祖母が繰り返し口にしたのは、女性にとって、身だしなみを整えることがいかに重要であるかということだった。

当時私は中学生で、友達に教えてもらいやっと眉毛のそり方を覚え始めたとろ。

祖母は私の残念な眉毛をみやっては、まるで捨て猫でもみるような目付きで、ほら座りなさい、やってあげるから。と鏡の前に座らせて、非常に遺憾そうな顔つきながらも私専属の美容部員へ変身してくれた。

そりそりそり。と昔ながらの、やたらと切れ味が良さそうな剃刀を、適度な力加減で優しく扱う。 ぼうぼうのまゆげに注がれる視線は真剣で、それは授業参観日に慣れない化粧を頑張っていた母の目つきによく似ていた。それまで祖母を母と似ていると思ったことはなかったけれど、指先の間から見えるその眼差しに、ああやはり親子なのだと、やけに感動したのを覚えている。
部活帰りに祖母の家に立ち寄ったその日、季節は夏で、網戸の向こうで蝉がけたたましく鳴いていて、まさしくうだるような暑さだった。
エアコンがない祖母の家は、今にも羽が取れてしまいそうな扇風機と、小さくあけた玄関のドアから吹く心もとない風だけで室内の空気を循環させていた。
それなのにいつもきれいにお化粧をしていた祖母は、まったく崩れさせることなくそれを保っていて。最早同じ女なのにそうでないような、ある意味魔女なのかというような気持ちで齢70の祖母を見ていた。

今朝、鏡の前にたったとき、なぜだかふとあの夏の情景が浮かんで、少し可笑しくなった。中学生のときの私もいまの私も、やっぱり眉毛を整えるのが苦手で、もう書くのも面倒だからとほぼはやしっぱなしである。
こんな状態をみたら、祖母はなんていうだろう。ついでに、この秋お嫁にいくんだよと、伝えたら。
なんてことだって、びっくりして。また戸棚の奥から、やたら切れ味のよさそうな剃刀をとってきてくれるだろうか。

とても華奢なのに、波瀾万丈な人生を歩んできた故か力強さすらも感じたあの背中が、瞼の裏に過る。
大切なときには祖母が縫ったあの着物を着ると決めていたから。せめて秋までには、着物に恥じない女性にならなければと、すこしだけ心が引き締まる。

うだるような暑さと、洗面所にぽつんと置かれたピンクの眉毛用剃刀。

蝉のけたたましい鳴き声を聞きながら
もう、この世にはいない祖母と、懐かしいあの家を思い出している。