子供のくせに
子供のくせに、と言われることが、子供のころは本当にいやだった。
あらゆる失態の原因や大人の言う不都合な事実を、年齢を根拠に言われてしまう。
幼い私は、自分は幾つだからまだ不十分なのだ、と思うことに非常に憤りがあった。
やっと、ちょっとは大人を名乗ってもいいくらいの年齢になって。
果たして、あの頃の自分は本当に、大人が言うような力ない、理解の足らない人間であったのだろうかと考えてみる。
子供はたしかに、大人のように言葉を使えない。だがだからこそ、言葉の端々にある温度の変化、語尾に含まれる鋭さには敏感だ。
あるときは一瞬の表情でそれを読み取る。
自分がいま、なにをされ、なにを言われているのか。もやもやとしていて形には表せられなくても、思い起こせば、いま言葉に直すと当時も案外それに近いものを感じていたのだ。
当時小さな子供であった私にとって、大人は壁だった。
子供の癖に、と
何年も先にある「大人」という表札を頭上で掲げられて
もうそこからは何も言えなくなってしまう。
先月またひとつ年を取った私は
私と、私の友人たちを笑ったそのひとの年齢をとうに過ぎた。そして思う。
月日は、それだけでは何も意味をなさない。
限られた手段を手に、人一人に向き合おうとするその目をはね除けてはいけない。
むしろ無用な壁を作らず、表札を掲げず、自分の答えを待つ誰かがいる。その尊さを知らなければならない。
いつのまにか、コミュニケーションに利害を織り交ぜるようになってしまった自分自身も、戒めなければならないだろう。
小さい頃
子供の癖に、と言われることが嫌だった。
果たして彼らはいま
大人の癖にと言われれば、何を思うのだろうか。