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ありをりはべり

日常のひきこもごも

怒りの処理

ふつふつと黒い感情が沸き上がって、どうしようもならないとき。ついには自分の手の内には留まれずに、言葉や表情にとげが出てしまう。起き抜けのぼんやりしているときや日が陰って夕暮れがやってくるころには、やさしさを持てなかった日のことを思い出して、こんなに悔やむのならあの時もっと無理をしてでもうまくやればよかったのだ、と悔しくなる。

 

けれども人間に、自分を責めるという行為があってよかった。

ふっとわいてきた怒りや憎しみは自分の予想、過去に体験した強さを上回った場合、衝動的な何かに変わりやすい。人はそれが物的な行為に変わる前に、一度立ち止まる、そして自分を責めるという道にそれることができる。動物ならばより極端でおぞましいことになりえただろうことも。

 

怒りの処理というのは本当に面倒だが、いくつかの選択肢が用意された環境があることは、きっとある意味では幸せでもある。

泣きながら信頼する誰かに打ち明けたり、遠くまで車でドライブしてみたり、最初から最後まで振り返ってみたり。自分を責めてみるのもその一つで。どっちが全部悪いなんてことはない、自分の落ち度を探すことは大切なことだ。

なにより遠回りできるものと時間があることを、当たり前だと思ってはいけないと思う。

 

堂々巡りの自問自答など、無心になるための行為などなんの意味もなさない、と言われればそれだけのことだが、意味や無意味を考える前に、とりあえず何かしら侵襲のないかたちで行動を起こすことは重要ではないだろうか。

 

先日はどうにもこうにも消化しきれないことがあった。怒りを外に放出することもできず脳みその中にぎゅうぎゅうに詰めることで耐えていたため、ひどく疲労していた。帰宅してから遠出、凝った料理をする、とりあえず泣いてみる、歌ってみるなどいろいろ考えみたが、何より疲れていたのでとりあえず泥の様に眠った。おおよそ七時間は眠ってしまい、空腹で起き、冷蔵庫の残り物をかたづけるに徹した。そして風呂に入って冷たい麦茶でも飲めば、もう脳内をぱんぱんにしていたあれこれはしゅんと小さくなっていたのだ。

私の怒りなんてこうも単純なものかと少々呆気にとられたけれど、きっと私なんてそんなものなのだ。そう思えばなんだか楽になってしまった。

生理的欲求が満たされて、精神的苦痛はほんの雀の涙ほどになって、親しい友人から元気にしているかと連絡を受ければ、もうすっからかんだ。

 

 

学生のころに繰り返し勉強したマズローはやはり間違っていなかったと、私はかの偉人に尊敬の念を抱いたのだった。