赤ん坊
2014年11月、酷い寝不足で迎えた朝はやはり最悪だった。
都会をすこし離れたところにあるその駅のホームには、スーツを来た男性が数人と、着飾った綺麗な女性が何人か。
電車が近づいていることを知らせるアナウンスとともに、赤ちゃんを抱いた女性がホームに一人降りてくる。
女性はまだ、あー、うーと喃語しか話せないのであろう赤ん坊に、さむいねと小さく語りかけていた。
秋冬の朝というのは、日差しが夏のそれとは違い随分柔らかだとおもう。
着ている安物のセーターの、なかなかざっくりな編み目から入り込む冷気には思わず身震いしてしまったが、しょうがない、1000円くらいだったしと、どこかの国で作られた化学繊維を責めることは止めた。
黄色い線の内側に立てと聞きなれたアナウンスが入って、冬に向かう季節の冷たい風を纏い、電車がホームに滑り込んできた。
これに乗れば、あとは二つほど乗り換えて、ただ揺られるだけだ。
がたんごとんと揺れる電車、先ほどホームで一緒に突っ立っていたサラリーマンは、わたしの向かいに座っていた。
すこしくたびれたスーツを着ていて、靴の爪先は小さく剥げており、目線は斜め下で、なにかとても重大な宣告を受けるのを待っているみたいに、唇をきゅっと結んで、浅く息をしていた。
横におかれた革のビジネスバックが自棄にお洒落で、それがなんでか物悲しげに写った。
なにがあったのかと一瞬思って、
考えるのをすぐやめた。
きっと私だって、こんな麗らかな土曜の朝、仕事に向かうのであろうこのサラリーマンと、おなじ顔をしているのだ。
誰かに必要とされたいと、思って。
思えばずいぶん似合わないことに、無理をして、手を出していた。
結果待ち受けていたのは、好きでもないものを好きといい、嫌いなものを嫌いとも言えない。そんな虚しい時間だけで。
数歩離れたところに立つ、赤ん坊を抱いた女性の後ろ姿。
あたたかな両腕に抱かれて、やさしくあやされて、赤ん坊はすやすやと寝息を立てていた。
一瞬、もう赤ん坊になりたいとさえ思った自分が、酷く恥ずかしくて、何だかとても残念だ。と思った。
残念だ、がっかりだ。
そんな言葉が、ぴったり。
不意に電車がぐらっと揺れて、力なくぼうっと立っていた為に体が揺れに持っていかれた。慌ててつり革をぎゅっと握り直す。
向かいに座るサラリーマンは、一瞬急に近づいてきた私にびくりとして、そしてまた唇をきゅっと結んだ。
がたんごとんと、電車がリズムを取り戻す。
乗客はみな、涼しい顔でそれに揺られていた。
そのとき、先程まで眠っていた赤ん坊が急に泣き出した。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。
細く、絞り出すような声で赤ん坊は泣いた。抱く母は申し訳なさそうに周囲を見渡し、赤ん坊の背中をとんとんと優しくたたき、あやす。
大丈夫、大丈夫。
啼泣のあいまに聞こえる優しげなその声が、やけに耳に残る。
けれどそれと重なって、小さな貧乏ゆすりが聞こえてきた。あのサラリーマンだ。
見るとまたさらに唇をぎゅっと結んで、ぎろりと赤ん坊を睨んでいた。膝の上に組んだ手が、貧乏ゆすりにあわせて上下している。
なにかに追われているようで、追っているような。
切迫した表情で、泣き止まない赤ん坊をその目に捉えていた。
がたんごとんと、電車は揺れる。
目的の駅まであと10分だとアナウンスが流れる。
サラリーマンのきゅっと結ばれていた口が、ゆっくりと、わなわなと開かれていくのが見えて
背筋がひやりと冷える。
電車がまた、がたんと大きく揺れた。
このなかでたったひとりの、自分を無条件に愛してくれるひとの腕に抱かれて、赤ん坊は泣く。
目の前に現れた幸せのかたち、
本能のまま泣くということ
刺すような視線を受けているのに気づいて、母親の表情が強張ったのが見えた。
それでも
はじめはみな、小さな赤ん坊だったのだ。