ありをりはべり

日常のひきこもごも

書くこと

最近は若くして亡くなるひとを目にすることが多い。

勿論年齢問わず色々なひとの、最期或いはその間近であるときを同じ空間で過ごすことは多いのだけれど。どうしてだか冬は、まだ昨日まで仕事をしてましたとか、最近結婚したばかりだとかいう、生活のエネルギーみたいなものがなみなみとあった若い世代の最期を看ることが多かった。


原因の多くはとんでもない不摂生だ。
だがそもそもその不摂生の原因は、心の繊細さであったり、社会からの孤独であったり、朝も夜もわからず働かねばならない生活であったりという。
さまざまな事情があったりする。

でも一握り、何故なのか理由もわからず命を失うひともいる。

残された家族のことを思うと、やはり耐え難い苦しみだろう。夫を亡くしたというわたしほどの歳の女性に、なんと声をかけてよいのか分からなかった。
女性は生後数ヵ月の子供を抱いて、夫の死を受け入れなければならなかったのだ。

否、もうなにも言葉をかけてはいけなかったのかもしれない。
心臓が止まるのを、体温が失われるのを前に、言葉などなんの力も持たないだろう。






昨年は、プライベートでも仕事でも、尊敬できるひとに沢山出会い、仕事は忙しくも周囲のあたたかさに支えられて、少しずつ自分の立場も変わり始めている。家に帰ればいつも穏やかに笑って迎えてくれるパートナーがおり、毎日が驚く程に充実している。
20数年生きてきたなかで、一番よい年だったと思う。それはもちろん、今現在進行形で。もっと長く生きているひとからしたら、そんなものと思われるかもしれないけれど。



温い毎日のなかにいて、私はふと思ってしまう。
この夢みたいに穏やかな時間は突然に終わりを告げて、自分もまた、なんの前触れもなく命を失うときがあるかもしれない。

ひとはいつか死んでしまうのだし、いまからてんやわんやしてもどうすることも出来ぬだろうと誰かが言っていた。
確かにもうどうすることも出来ないという場面は生きていたって多々あるわけだから、死ぬ間際だってそうだろう。

でも折角、奇跡的な確率で生まれてきたわけだし、ちゃんと学校にもいかせてもらえて、ある程度の漢字やひらがななんかが書けて、文章をかく時間も媒体もあるわけだから。これは生かしたほうがいいかなと思うのだ。

確実にいつかは死んでしまうなら
なにか少しでも生きていた証を残したい。悪あがきみたいなものでも。


別れた恋人が家に来てどうとか、すこし自分の私生活をさらけ出した内容を書いたのは
まぁこんなこともあったよなという、ささやかな人生の記録になったら良いなと思ったからだ。
そして誰かがこれを読んだときに、こんな変な人もいたんだなって思ってくれればうれしい。

もしかしたらストーカーに悩んでいたり、変な人とばかり付き合ってしまうという人が少しでも希望を持つかもしれないし。
勿論へたくそな文章を読んじゃって時間の無駄だとか、下らないのろけ話だとかいろいろ反感を持たれることもあるだろうけど。


いろいろ感じかたがあって当然だと思う。



近い未来かどこかで、また苦しい日々が待っているだろう。もしかしたら全部嘘かもしれない。
それでも、以前こんなことがあって
いまがこんなに幸せだということを


いまの私で、書き記しておきたい。