たびだち
夕刻、真夏のそれより少しだけ早く、藍色のとばりがおりる。
昼間は相変わらずの強い日差しの合間にも、雲が下りれば冷たい風が吹き、雨を連れてくるようになった。
大きいドットに小さいドット。交差する傘の色とりどり。 病院の窓から道路を見下ろすと、それはずらりと並ぶチュッパチャプスキャンディみたいで、いつだかスーパーで見たお菓子売り場の光景と重なった。
季節は静かにうつろって、時はいつのまにか、9月。
文章もおこさず8月の私は何をしていたかというと、引っ越しをしていた。
といっても近所から近所へなのだけれど、それでも住んでいたアパートには色々と思い出がつまっていたので、退去の日は感慨深くもなった。
特に印象深いのはアパートの住民の方々だった。みな愛想よく、親切で、入居のときも引っ越しのときも挨拶を欠かさない。よろしくお願いします、ありがとうございました。数か月、数年ごとに繰り返されるそれは、とても優しい時間だった。
思えばそうした人たちとのつながりのなかで、名も職業も知らぬ他者へもまっすぐに敬意を表すことや、感謝の気持ちを述べる、挨拶をすることなどを、いつのまにか吸収したのだとおもう。
そして思い出整理としてたくさんのものを捨て、また新たな箱に納めていくなか 、自分が思っていたよりも沢山の思い出に支えられてきたのだということを、知った。
日付が既に一昨年の、もう全く連絡をとっていない北海道の文通相手からの手紙、福岡旅行でお世話になったタクシー運転手の名刺。数年前に使っていた携帯電話。高校の頃の写真の数々、、は、やはり鉄板として。それらを棚から取り出す際、空っぽになって久方ぶりに見る棚奥の木目にすら、些か感動を覚えた。同時に鼻をつく埃の匂いに、掃除しとくべきだったと反省するわけだが。
割と顔と名前の記憶力はよいと言われる私だが、もう顔を思いだすのも難しいだれかも、名前を聞いてもぴんとこないだれかも、指で足りるくらいは見つけてしまう。
私の望む望まないに限らず、時間は体温や声、美しい景色や匂いまでをも彼方に連れていってしまう。
だがだからこそ、冬の夜のつんとした闇のなかで思い出す夏の夕暮れは、より鮮やかさで。冬の持つ冷たさを恋しく思う熱帯夜、寒く厳しかった記憶も至福にすら思えるのだろう。
実態は伴わずも思い出はいつも自分のそばにあり
棚奥の木目がそうであるように
長い間を経て目の前に現れたときには、古さと新しさを兼ね揃えたものにもなる。
数年前、小さい子供だった私が父の背におぶられて家路についた夕刻の時。
派手に転んで大ケガをしたときの痛み。
道端の花の蜜を吸って、その甘さに驚いたこと。
もう20年ほど前のことでもまだ、私の脳裏に鮮明に焼き付き、触感や味覚までもが思い出される。
人も物も命は限られている。
だが記憶は時間を越えてあり続ける。
感覚はきっとなににも越えられないものを持っていて、だからこそ、尊い。
よろしくお願いします。
ありがとうございました。
始まりと終わり
出会いと別れの
温かな挨拶を抱いて
久しぶりの日光を気持ち良さそうにあびる、棚奥の木目に
いつかの温かい記憶を思い起こしている。