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ありをりはべり

日常のひきこもごも

アニミズム

見方を変えれば、目に写る景色はいくらでも変化できること
忘れはじめたのは、いつごろだったか。

仕事帰り
自分の足下を走る、横断歩道の白い線
等間隔に並ぶその白線を、横に走っている、と認識したのはいつごろだっただろう。

振り返れば小さいころ
私はとにかく頑固で、周囲がここではないよ、と諭す言葉を素直に聞きいれない子供だった。いつも、どこか日常の隙間には自分の感性で捉えた「絶対」があって、それを覆すには子供なりの理解力で納得できる理由が必要だった。
幼なさが繰り出すなぜに続くなぜを前に、大人はいつも困り顏だった。そのくせ答えてもらってもなかなかうんとは受け入れないのである。きっとかなり偏屈で面倒な子供だっただろう。


特に理解に苦しんだのは縦と横の概念だった。
縦線と言われる線は見方を変えれば横線だし、横線もそのしかりで。さらに斜めから見ればそれは斜線なのだ。

小学生のころ登下校で渡る横断歩道の白線は、横断歩道の信号へと並ぶ横線ではなく。その横を見遣ったところの、交差点の信号へと向かって横一列に並ぶ、縦の線に見えた。
白線はまるで、週一回の朝会で校長先生に体を向け整列する、そのころの私たち小学生のようで。


交差点の信号を前にずらり並ぶ白線は、朝日と夕日の淡さも強さも備えた日の光を受けて、ただそこにあるだけで勇ましく見えたのである。


アニミズムという言葉を知った時、自分の感性で捉えたそれらがひとつの言葉に収まってしまうことに、衝撃を受けた。

小さいころ、私の生きる日常は数え切れないほどふわふわした捉えようにないものに溢れていて、見方を変えていくらだって違うふうに見えたのだ。

無機質なものに時に息遣いを感じるとき。思えば小さいころからやたら空想ばかりしていた理由はその面白さにあったのかもしれない。
そこにある不確かさがたまらなく面白くて、なのに不確かさすらもたった5文字で表されてしまうということ。なんとなくそれは、値引きされた商品を前にしたときのような気持ちに似て、少し侘びしかった。


いくらも言葉を覚えていない私は、自分の感覚だけが物事を吸収し解釈する術だった。


大人になって、横断歩道を歩くのと車で走り横切ってしまうのとは、同じくらいの頻度となった。
そうして疑いもなく進行方向が正面で、横断歩道の白線は横に走っているものだと認識している自分がいることに、ふと気付く。

しかし、夕日を背に浴びて灯る、交差点の赤信号。
赤信号の前に並ぶ横断歩道の白線から、一瞬だけ、あのときと同じ小さな違和感と勇ましさを感じたとき


小さいころから変わりなく持ち続けていた感性が、まだ胸の奥に息づいていることを知って、すこしだけくすぐったい気持ちになった。


いつのまにかどんどん大人になっていく私は、いつも何かしらの概念のなかで迷いながら、進むべき道を探していく。
けれど子供のとき常に心のなかにあった、既存の概念に囚われない、言葉にならない感性というものを。削られたりつなぎ合わせたりして形を変えていく私という人間の心のなかに、すこしでも刻みつけられたら。

大人にならなければという思いと、大人になりたいという願望が年追うごとに強くなっている今。

私は追われるように大人を目指しながらも、やはりときには子供に帰れる自分でいたいのだと
暮れ行く町のなかにあって、小さく胸に思ったのだった。