AからBへ行くまでに
文章を書いているといつも思うのは、タイピングのスピード、改行のスピード、変換のスピードが自分の思考の早さと合わない、ということだ。
私は、だらだらながったらしく文章を書いてしまうというくせがあって(つまりはまとめるのが下手だと言うこと、ちなみに会話でもそれは顕著)
AがBである。
という誰かにしてみればごく単純に説明できることでも
わざわざAとBとのあいだに中間地点のCやDをつくり、ときにEとかFもつくってしまう。
そのせいで、このブログもブログといえどもひとつの記事が長めらしく
さくっとかいてるふうには思われないのか
「だいたい書くのにどれくらいの時間をかけているのか」という質問を何回かされたことがある。
こういう質問をされたとき、
ちゃんと考えて文章書いてますというような、無駄にかっこつけたい気持ちが芽生えて
「2.3日は構想練ってから書いてます」とか「2時間はかかります」とか言いたい自分がいるのだが
実際のところは
9割がたの記事が15分から30分以内で書いている。
私の場合「いま、書けそうだなぁ」というタイミングがふっとやってきて
それが仕事中であるとか遊んでいるときという場合を除いて、書ける環境であるときに、気ままに書いている。
文章をかける体勢になると、頭のなかには言葉や情景が滝のように流れてくる。
ときにキーボードを打つ自分の指さえも追い付かないはやさで、情景と言葉とが結び付き、そして瞬時にまたあらたな結び目をつくっていく。
大きな編み物を何かに急かされるように編んでいく。
文章を書く時間というのはわたしにとってそんなイメージである。
こういうことを話すと、そんなに早くかけて凄いですねといってもらえることもあるのだけど
このやり方は
きちんと文章の構成を考えたり、読み手へ配慮した表現を考えたり、ということをまるっきり放棄したやり方なので
言っている自分は、読んでくれている方たちに対して、ひどく申し訳なくて恥ずかしい気持ちになる。
だから、実は一つの記事を書いたあとの
「修正」の時間こそが、私にとって一番大切な時間なのだ。
よみ返すと、読み手に配慮していない言葉、表現に度々気づく。
それは文と文の繋ぎ目や
改行のタイミングの不自然さであったり
読み手の年代や性別やその他の背景によってはかなり理解しづらい言葉、情景であったり。
書き手である自分は当初なかなかそれに気づけない。
だからひとつの記事をアップする前に何度か、
そしてアップしたあともさらに数日たって読み返してと、自分自身が読み手の立場になるなかで、ちまちまと修正を重ねている。
しかもだらだら文を書いているわりに活字が苦手で、本だって一年に3冊も読まない。
こんなに書いてて苦手はないだろうという人がいるけれど
本当に活字が好きで自分の表現を持っているひとは、
ほわほわしてつかみどころのないもの、
胸に迫り来る感情や情景を、もっと最短の言葉で伝えることができるものだと思っている。
この文章の長さは活字が苦手ゆえだと自分ではかなり納得しているし、たぶん間違いない。
そして、最近は文章のくどさとともに相棒の不具合にも悩まされていて、これが自分にとっては結構深刻なものである。
もともとパソコンで打っていても、タイピングと変換のスピードが思考に追い付けないことが多いのだが
先日は昨年から調子の悪かったパソコンがさらに亀のような動きになり
思考と指が追い付いても、パソコンが微動だにもできないという事態が度々発生している。
それで最近は携帯で文章を書いているが、人差し指がもうそろそろ限界である。
いい加減、新しい相棒を探さなければならないなと
預金の残高についてそう思いを巡らせているが。
いや、まずはもっと本を読んで、簡潔に文章を構成する技術を身に付ける方が先だろうと。
もっともすぎる言葉が頭に浮かんだ。
学生のとき、国語の先生は「一番言いたいことは先に書いてからはじめるのよ」と言っていた。
私が今回一番伝えたかったのは、この記事のスタートの4行だ。
先生、やっぱり私はまだくどいままです、と
切なくなるくらい悪かった現代文の成績を思い出しながら、先日友人から借りた本を手に取ってみたのだった。