哲学の始まり
以前ブログにも書いたのだけれど、私は話し方が沖縄の人らしくない、標準語寄りらしい。周囲が沖縄なまりや方言を使うなか、それは少し特異に映るらしく、何故か標準語っぽいしゃべり方をするだけで頭がよさそうに見えるなどと友人は言っていた。
わたしの場合はちょっとかための文章を書いていたりもするので、余計に真面目な話ができそうな人だと思われるのか、なんだか哲学的な質問をされることが、時々ある。
実は、そのたびに困惑している。
たぶんそういう哲学的な話をする人の頭のなかには、たくさんの引き出しがあって
こういうワードにはこういうワードが
というように、幾重にも線が繋がるように関連図ができているのだろう。
しかもその幅がもう、宇宙だとか死生観だとかものすごい次元なのである。
過去に「時間とはなんだと思いますか」
と質問をされた時、私はいまここにあるもの、としか答えが浮かばなかった。
それよりも、昨日作ったカレーはどれほど美味しくなっているだろうかと、そんなのんきなことにやけに真剣に思いを馳せていたのである。
だって人として生まれたことで時間に縛られてしまう云々とか、何次元がどうでとか考えているあいだにもご飯は炊けるし、バスは来ちゃうし、あくびが出たら自然とあったかい布団に向かっていくのだ。
そして朝隣に寝ている誰かさんを見て、あぁなんかよくわかんないけど幸せ。とか思えたりするのである。
いま自分が目の前にしているぬくもり、息づいているもの。そういったものはものすごい早さで心に浸透していく。そして「なんかいいよね」とか「なんか嫌だね」っていう、いやだからなんかってなんなのって訊きたくなるけど、三秒待てばちょっとじわじわ分かってくるなぁというような。たった三文字で中途半端に思いが伝わる感じも好きなのだ。
もうただ脳みそがすっからかんで性根がだらしなくて適当なだけなのかもしれないけど。そう言われても反論できないけれど、そういうあやふやなことに確かに救われる瞬間があって、その言葉に表せられないぬくいものを、同じように、言葉にしなくても分かち合える人に出会えた時、なんともいえない幸福感に包まれたりするのだ。
でも、いつか。
私の頭のなかの引き出しが増えていって、あみだくじみたいなやっつけ仕事じゃなくって、ちゃんと物事の線と線とを結べるようになって
その時々で訪れる哲学的な質問と、私が生きる日常とが自分のなかで結びついた時
カレーを食べながら、皿を洗いながら、バスを待ちながら、あくびしながら、私は何かをむんむんと思考するときがくるのかもしれない。
なんだかそんな私は全く想像できなくてちょっと自分でも笑ってしまうのだけど
それもそれでなんだか、おもしろそうである。
なんかってなによ。
きっと、その問いを真っ直ぐに自分に投げかけた時が、私のなかでの哲学のはじまりなのかもしれない。
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