なりたい自分にきづくとき
自分自身の配慮の無さというか、機転の無さというか。
そういうものに気づく瞬間、ああまたやってしまったんだと、胸が少しばかりちくりと痛む。
今日は、車に乗っているときに対向車にうまく道を譲れなかった。
朝、家を出た時、道ですれちがう小学生があいさつをしてくれたのだが、タイミングを逃してしまい、返せなかった。
謝罪することや断ることを、相手を思いやる言葉で、言えなかった。
もっと機敏に状況の判断ができていたら。
気持ちを上手に言葉にできたら。
そんな思いに、苛まれる。
だけれど、それは同時に、自分はこういうことができる人になりたいんだと気づく瞬間でもある。
相手と自分、周囲にとって安全なタイミングで道を譲れる人
きちんと挨拶を返せる人
柔らかな言葉で、けれど心には芯をもって、謝罪すること、お断りできること。
なりたい自分のその根本は、みなどこか共通しているように思える。
そしてその「なりたい自分」を指し示してくれるのは、私をいつも支えてくれている周りの人々なのだということにも、気付かされる。
しっかり私の名前を呼び、こっちへおいでと席へ誘ってくれる人
目を見てうなずきながら話を聞いてくれる人
優しい言葉だけでなく、ときには厳しい言葉も発しながら、あたたかな道へといざなってくれる人
今日だけでなくこれからのことを、一緒に楽しもうとしてくれる人
あなたのその言葉が嬉しい、と直接相手に伝えられる人
思い返せば今日一日だけで、何度「なりたい自分」に出会うことができたのだろうかと驚く。
いつも「ああ、素敵だな」とふっと温かい気持ちになる瞬間を与えてくれる人たち。
原点に返らせてくれるその瞬間と、そういった素敵な人たちと過ごせる今があるということ、未来を思い描けるということが幸せだと思う。
自分の至らなさに気づくときは、なりたい自分に気づくとき。
ぬくもりを持ってそれを行っている人たちに出会うとき、思う理想がより確かさを持って心に描きだされる。
あたたかなことばと眼差しに溢れていた今日。
明日はどれだけのなりたい自分に出会えるだろうか。
日々訪れるそのひらめきのような瞬間が、いつも私は、楽しみでならない。