陽だまりの図書館
例えば、一緒にいるだけで心がぽかぽかになったり
すごく体にいいものを頂いたような気分になる
そういう人が、身近にいるだろか。
私は人に恵まれている。
周りには幸いにして(本当にこれはひとに自慢できるレベルで)、優しくて温かな人が多い。
なかには、奇跡のような相性というのか
ほぼ初対面でも、この人なら自然体の自分で向き合ってみたいなぁ、なんて思える人がいる。
わたしにとってそれは、通っていた専門学校の図書館の先生だ。
先生は、いつでもニコニコ笑っている
とてもあたたかな眼差しを持つ人である。
先生が赴任してくるまで、学校の図書館は医学とか看護の本や雑誌ばかりで彩がなかった。たしかに看護学校であるからにはそれが普通なのだけれども。専門書のなかでも、結構むずかしくて気軽には読めない部類の本が多かった。
医学書に関しては、自分なりに分かりやすい本を見つけている人もいたし、なんなら本好きなひとは大きな図書館のほうに通っており、普段から学校の図書館の出入りは少なく人はまばらであった。
思えば、賑わいそうな試験前でも利用する人がそう多くはなかったのを記憶している。
卒業を目の前にした三年生のとき、前任の司書の方が退職し、先生が赴任してきた。
先生は、赴任から一カ月ほどたった時点で看護にまったく関係のなさそうな文庫本や雑誌を少しずつならべ初め
私は訪れるたびに色を変えていく本棚に、いつも驚かされた。
それから少しずつ、変わっていく本棚を見るのが楽しみで図書館に通うようになった。
文庫本だけではなく、絵本や、どこかの国の旅行書など
ジャンルも国境も越えて、肩を寄せあう、色とりどり。
「全部が全部難しい本ばかりでは、せっかくの若い感性も育たないと思ったの。それに、あなたたちのお仕事は、感性を大切にしないといけないお仕事だと思ったから」
そのときのことを振りかえって、先生はふわふわ笑った。
学生の時は放課後に立ち寄ることが多く、窓の外は藍色に暮れている空か真っ黒な闇かのどちらかだった。
だが社会人になってもときどき訪れているいま、勉強したあとの昼下がりの図書館で、先生とぽつぽつおしゃべりをしたりする。
あたたかな日差しが窓から差し込む、その蜂蜜色の景色のなかで、学生の小さなおしゃべりと本のページをめくる音がささやくように重なり合っている。先生はそのなかでいつも笑っていて。
感性は大事よ、とたしかめるみたいに言葉にする。
そのまなざしも、そして先生が学生へ向ける思いも、やはりあたたかい。
蜂蜜色の景色の中でふわりと笑うその姿は、まるで陽だまりみたいだ、と思う。
訪れるたびに出会う温かさに、普段意地っ張りで固めた殻がゆっくりはがれおちて、ありのままの自分が自然と顔を出してくる。
気付けば今日の嬉しかった事とか悲しかった事とかおしゃべりしている間に、時間がすぎていくことも多い。
そして先生が話す感性の意味が少しずつわかりはじめている今、灰色の本棚に文庫本を並べた先生のまっすぐな思いに、やはり感謝の気持ちでいっぱいになるのだ。
社会人になってから、並ぶ本たちがほとんど先生の寄付によるものだと知り、さらに胸に滲みてくる。
どこか寂しく色あせていた図書館は、色とりどりの背表紙の本が並び、やっと呼吸を取り戻したように色づいている。
感性は、ゆっくりと育っている。
いつか先生が「一人でこうしてカウンターに座っていると、一人ぼっちみたいで、寂しくなるときもあるのよ」と話していた時、私はそんなのとんでもないと返した。
過去にはぽつぽつとしか利用する人がいなかった図書館、いまや文庫本の棚の前で真剣に本を選ぶ人、先生セレクトの医学書を嬉々として借りていく人、黙々と勉強する人、さまざまである。
こんなに温かくて人が集まる場所になるなんて、先生が赴任する前までは考えられなかった。
先生はたくさんの生徒に囲まれているんだよ、一人なんかじゃない。
そう言った私を、先生はとてもとても嬉しそうにほほ笑んで見つめた。
仕事を始めてから思ったのは、人の手や声でぬくもりを伝えることは本当に難しくてそして大切なことだということだ。その原点となる感性を育てることには、これからも貪欲でありたい。それは、自分の信じるものを学生へ届けようとした先生から、学んだこと。
ふわふわ笑みがこぼれる
陽だまりの図書館は、きっとこれからも学生たちの笑顔で満たされていくだろう。
そうであってほしい、と
私は、大好きな蜂蜜色の景色に出会うたび切に願っている。