ありをりはべり

日常のひきこもごも

生成色の記憶

ひどく落ち込んでいるときには、ささいな出来事にも心に追い打ちをかけられてしまう。

 

それは、アパートの郵便ポストがなぜか上手く開かないときであったり

やたらエントランスにチラシが落ちていたり

そろそろ換えどきなのであろうエレベーター前の蛍光灯が、日に日に点滅の間隔を縮めているのに気付いたときなどで。

 

深夜二時。そんな些細なもろもろにげんなりしながら、それでも今日の仕事を終えられたことに安堵する。

今日はもう泥のように眠るなという確信にも似た予感を抱いて、アパートのエレベーターに乗る。

ゆっくりと昇っていくのは点滅する数字でわかるのだけど、いつも昇るというより下っている感覚がするのがエレベーターの不思議だった。もし存在するなら今日は未知の地下に連れていってもらうのも悪くない、だとか訳の分からない妄想をしてしまった時点で、階につく。

軽やかな音でエレベーターが開くけれど、その音の軽やかさにさえも切ない気持になるのはどうしてか。

自分の部屋の前について、カギ穴にカギを差し込む、回す。カチリ、と音が鳴って、ドアがすんなりと開く。

何一つうまくいかなかった今日、たったそれだけで、ほんの少し救われる自分がいたりする。

 


 

ドアを開けるといつもの景色、いつもの玄関。

取り敢えずの「ただいま」は、あっという間に深夜の闇に吸いこまれる。あるのはどこまでも深い静けさ、出勤する前に食べたご飯のかすかな匂い、冷たい床。

 

照明のスイッチを入れようと右手をあげたところで、何か握っていたことに気づく。郵便ポストにやたら詰め込まれていた、請求書とチラシだ。空いている左手で部屋の明かりをつけ、請求書は引き出しへ、チラシはすぐ近くにあったゴミ箱へ。もくもくとその仕分け作業をしている中、チラシでも請求書でもないものに触れた感覚がしたので手を止めた。見ると、年賀状だった。

 

生成色みたいな柔らかな色のはがき。うすい桃色に印字された新年の挨拶。綺麗な振袖を着ている女性と、照れ笑いみたいな笑みを浮かべている男性が並んでいる。

「結婚して初めての新年を迎えました」の一文に、あぁそうかと納得した。

 

女性のほう。去年私がいた部署の、同期だ。昨年廊下で偶然再会した際、彼氏と結婚すると報告を受けた時のうれしさが思い起こされて、じわじわと温かさが胸を占めてゆくのを感じる。年賀はがきに映る幸せそうな二人の姿に、口元が思わず緩んだ。

幸せに、なったのだ。なっていくのだ、彼女は。そう思うとやはり、うれしかった。

 

はがきには数行メッセージが書かれていて、他部署に異動した私を案じていること、今度またご飯に行こうと書かれている。

そして、はやく戻っておいで、と。

 

辛いときにはよく幸せな記憶に助けられているけれど、その最たるは同期の皆との思い出だ。

 

私が最初に入った部署は少しだけシビアなところだった。入職からの一年はしんどいもので、同期の内誰か辞めてしまうのではないかといつも不安だったし、もちろん自分が仕事を続けられる自信もなかった。

同期の皆で、頼りない糸を何度も寄り合わせるように、励ましあって、日々を繋いでいた。それは冷たいなかでも常にありつづけた、あたたかな繋がりで。

 

異動となり、一人で知らない分野へ飛び込んだ私を心配する同期の温かい言葉に

きりきりに締まった心の糸が、ふわりと解けるような安堵感を抱いていた。

それでやっと、じわりと視界が滲んだりして 

ほっとするというのはこういうことだと、変わらぬ優しさに、あらためて気づかされる。

 

冷えた床の上に立って、一枚のはがきを手に取ったまま、わたしはゆっくりと深呼吸をする。

閉ざされた空間で冷たいものに触れる日々、ときに自分の心さえも温もりだとか感性だとかを忘れそうになるけれども。過去、皆が常に温かさを抱いて分け合っていたように、いまも私にそうしてくれるように。

 

本当に大切なものは一番身近にある。

そして失うには、まだ早い。

 

やはり闇は深くて、向き合わなければいけないことは多々あって。

でもきっと考えているより物事はシンプルで、答えは単純明快なはず。そんな予感がした。

がんばるよとも、大丈夫とも言わない。ありのままの私を貫いていけたら。

 

朝を迎えれば、夜の闇も冷たさもゆっくりと色を変えて、柔らかさを纏ってゆく。それは同時に一日の始まりだ。日々繰り返されていくことのなかに、少しでも変化を生みながら、歩んでいきたい。

 

 

振袖姿で笑う同期に、ありがとう、と胸の中でつぶやく。

 

 

 

ありがとう。

またすこしだけ、前に進める。

 

 

 ***

 

 

 


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