ありをりはべり

日常のひきこもごも

その一杯

実家に帰ると、両親からほぼ100パーセントの確率で「珈琲がのみたいなぁ」とつぶやかれる。

 

それは決まって、リビングに私と両親しかいないときで。

何年も続いたパターンから、このつぶやきが「淹れてくれるよね」という言葉を含んでいるのを、知っている。

 

父も母も珈琲が大好きなので、いろいろな産地の豆を買ってきては「あれはここがいいけど、これはここがあまり好きじゃない」などと夫婦でよく議論している。

そんなこだわりをもつ両親を前にして、私は自分がそれを淹れるということにいつも気が引ける。

 

自分の淹れる珈琲が、果たして不味いのかうまいのかもわからない。

実は、私は最近やっと珈琲が飲めるようになったので、実家で淹れていた珈琲は味見すらしたことがないのだ。

 

小学生のころから、物欲しそうな目で「飲みたいなぁ」とつぶやかれるたびに、やれやれというか、あえて自分が苦手な歌を目の前で歌わされるような気持ちで、珈琲を淹れていた。

とりあえず母のやっている方法を見よう見まねでおぼえて、ざらざらした手触りのコーヒーカップに注ぐ。

 

父も母もそれをたまらなく嬉しそうに受け取って、おいしいねといいながら、ありがとうと笑って

その一杯を大事そうにゆっくりと飲む。

 

自分で淹れたほうが絶対おいしいだろうに、といつも心の中で思っていた。

こんなわけの分からないものをひとに出すなんて、とも。

それでも父と母の笑顔をみるたび

 

へたくそな歌を歌い終えて、恥ずかしさで死にそうな気持ちになっているなか、思いもかけず拍手をもらったような。

 

そんな、とてもくすぐったくて嬉しくて、どうしていいかわからない気持ちにとらわれていた。

苦虫噛み潰したような顔で淹れていたって、なんだかんだでそのくすぐったさが次の一杯へと繋がっていたのである。

 

中学生のころには、突然前触れもなくやってきた父の友人のおじさんに珈琲を淹れた。

家には受験生の私以外誰もいなかったので、父が仕事から戻る間なにか出さなければと思ったのだが、冷蔵庫にはお茶もジュースもない、ついでに茶っぱもない。

しかもその日はとても寒い日で、車以外では買い出しにも出れたものではない。まず家から町までは相当な距離がある。

思えば、あれほど人里離れたところに在る実家の立地を恨んだことはないだろう。

 


私は、もうやけになって、闇鍋でもつくる気持ちで珈琲を淹れた。来客用のコーヒーカップに湯気のたつ珈琲をそそぎ、おじさんのもとへと運ぶ。

おじさんは珈琲が目の前のテーブルにおかれた瞬間、ひどく驚いた顔をして、一瞬フリーズして、そしておそるおそるといった感じで、ごつごつした両手でコーヒーカップを包み込んだ。

そうして、私の淹れた珈琲をゆっくりゆっくり飲み干して

 

 

 

困ったように眉をひそめ、深い深いため息をついて、窓の外を見た。

 

 おじさんは、初めて会ったときから口数が少なく表情も乏しい印象だった。

それでも、父と話しているときなどはわずかに口許に笑みを浮かばせていたし、不快そうな表情をみたのはこれが初めてだった。今度こそ、審査員に大きなばつ印の札を掲げられた気持ちで、私はコーヒーカップを下げた。


片付ける際、ありがとう、と小さく言葉がかけられたけれど

それはコンクールに出れば誰でも貰える参加賞程度にしか思えなかった。

 

やってしまった、とうとう。

 

そんなへこんだ気持ちで受験生の数日を過ごしたあと、うちに郵便が届いた。父がにやにやしながら「お前にだよ」と渡してきた包みを広げると

合格祈願のお守りやら、それにあやかったおかしやらがどっさり入っていた。

誰からなのかと怪訝な顔の私に、父はそこに入っていた手紙をわたして

この間の父の友人からであることを話した。

 

送り主の住所は佐賀県。そういえばあのおじさんは島の人ではない。…おそらく地元へ帰ったのだ。

 

男の人の字とは思えないうすく細い字で

あの寒い日突然きた自分に、珈琲を淹れてくれたことがとても嬉しかったこと、でもきちんとお礼が言えなかったことを詫びる文章が、綴られていた。

そして便箋の一番下の端っこに、後日父から私が受験生であることを聞き、合格祈願グッズを選んでみたということ、遠くからでも応援している、と小さく付け足されている。

 

すこし心を病んで島に来ていたおじさんは、人と関わることがとても不器用な人であると、父が横で話していた。

そうしてうちに突然遊びに来たその翌日、私が珈琲を淹れてくれたことをとても喜んでいたということを。




 

私はこれでもかと詰め込まれた合格祈願グッズと、しわしわの手紙と、細い字を見つめて

父と母が笑ってくれたときよりも、もっともっとくすぐったくて嬉しくて、それでいて、切ない気持ちになった。

 

 

 

 

冬が来ると、いつもあのおじさんのことを思い出す。

 

正解などわからずも、精一杯やってみたことが、誰かのこころに届くということ。

それはとても不安で、あたたかなひとときであるということ。

その行い自体に向けられる、優しい瞳。

 

二十歳をいくつか過ぎてやっと、私は珈琲が飲めるようになった。

 

今度、自分の珈琲の味見もしてみよう。

そして実家に帰った時には

珈琲いれようか、と自分から両親へ言ってみよう。

 

 

 

 

きっと両親は、

まるで、歌い手が歌う前から拍手をくれる客のように

 

 

ただその一言にさえ、あたたかな笑顔を向けてくれるのだろう。