なぜなぜ攻撃と当たり前のこと
「最近、色んな言葉を覚えだしてね
あれは?これは?ってなぜなぜ攻撃なの。
いつも子供とは知恵比べだよ」
神奈川に住むいとこのお姉さんは、電話の向こう側でそう笑っていた。お姉さんの声のうしろ、今年5歳になる娘ちゃんの笑い声が耳に心地良かった。
早朝の街を歩きながら、ふとその会話を思い出す。
小さい時、見る世界は不思議でいっぱいだった。
なぜコーヒーは良い匂いなのに苦いの?
なぜ赤は止まれで青は進めなの?
10対4で負けましたって、なんで点数が高いほうを先に言うの?
そんななぜなぜ攻撃に、父も母もいつも困ったように笑い、無限のループに陥ると「それが当たり前だからよ」で話は終わってしまった。
当たり前だという結論を出すなら、なぜ当たり前なのかの説明が必要なのに、それを言葉にしてくれる大人はいなかった。
そしていつしか私も「当たり前」という言葉をごく自然に使うようになった。
なにが当たり前なのか?
20を過ぎて成人して「大人」の仲間入りをした今
あらためて思うことは、当たり前なんかなにひとつないということだ。
どんなものにも生まれた経緯があって
存在意義がある。
物事の一つ一つの繋がりは考えれば壮大過ぎて、疑問は持っても考えることは億劫で
まじめに向き合った時には目をそらさなければやっていけない現実に出会ったりもする。
だからこそ当たり前という言葉は便利で、そして、すこし寂しくもある。
けれど、それをごく自然に言えるからこそ見つけられるあたたかさもあるだろう。
「特別」を「当たり前」と認識していたことに気付くとき、当たり前という言葉の裏にあった幸せを知る。
舗装された道路、夜になればともり始める街灯
緑の葉っぱの葉脈、土に埋もれる枯れた花びら
秋空に走る飛行機雲、始業を知らせるチャイムの音
子供たちの笑い声のあいだ、諭す言葉、称える言葉
いつの間にか生まれてそこにあるものたちは
いつ失われるか分からない不安定さのなかで、たしかにこの社会を回し、どこかでだれかを幸福にさせ、ときに悲しみを生みながら
そしてひとつの命をつないでいる。
当たり前とは、なんだろう。
子供のころのなぜなぜ攻撃を思い出しながら、今日もいつものように朝起きて活動している自分。コンビニの袋を手にぶら下げて家路を歩いている。
後ろを見やれば、手をつないだ親子が今日はすこし寒いねと話していた。
どんな無機質もぬくもりも当たり前などない。当たり前なんかなくって当たり前なのだ。
そう心にすとんと言葉が落ちて、ああそうかと納得する。
考えることは億劫で、そして幸せだと思った。
これから、どんな「なぜ?」に出会っていけるだろう。
どこか心地よい胸騒ぎみたいなものを感じながら
今日もとぼとぼ、いつもの帰り道を歩いている。