ありをりはべり

日常のひきこもごも

値段

コンビニに陳列されている駄菓子を見て「こんな安い値段で売られる駄菓子の気持ちってどんなもんだろう」とふと思ったことがある。

まわりは数百円単位のなか、自分につけられる値段は数十円。
なかでもチロルチョコやガムなんかの最小部類は、一位二位を争う安さのうえ小さい箱の中でぎゅうぎゅうに詰められている。もうなんだか息苦しさの中で身の上を嘆くさまが想像できて、会計の間にとても切ない気持ちになった。


小さい頃、数十円というのは随分大きな単位だった。
数字によってうまい棒が2本買えるか3本買えるかが決まる。
駄菓子屋に向かうあいだ、十円玉を大事に握りしめていたせいで掌が錆び臭くなったのを、今でも思い出す。


十円や一円を、会計の際端数に使うもの、と思うようになったのはいつからか。

家を借りる、車を買う、高価な電化製品を買う。大人になるにつれ、値段の大きな買い物をするようになった。
心が荒れている時には欲しくもない洋服を適当に買ったり、食欲もないのに高い食事をしに出かけたりしたこともあった。


しかしそれから数カ月たって、行きつけのカフェでランチをしたとき
その値段を見て、ふと心に引っかかるものがあった。


カフェで食べるご飯は、いつもと変わらず美味しかった。
温かいご飯と、丁寧に作りこまれたおかずと、キャベツの緑が美しいサラダ。
「自分が嫌いなものはださない」と言っていたトマト嫌いの店長が、私がトマトが好きだと話して以来、サラダに添えてくれるようになった一切れのトマト。
私にとって、やさしさがあふれるその食事は、付けられた値段では安すぎた。


この値段でいいのだろうかと思いながら会計を済ませ、ではいくらならば納得なのかと悩んだ。

値段を見たとき、思うのはその値段の高い低いではなく、むしろ値段をはぶいたもっとシンプルな部分―そのものがどれだけ自分にとって価値があるかだった。


そうしてこれまでの自分の浪費を思い返した時、自分がどれだけ物の価値を考えもせず、無駄づかいをしていたかを知った。


共通認識できる数字を用い「値段」というものが生まれた時、つけられた数字によって差が生まれた。
ひと粒いくらなのかと考えたくなる高級なチョコレート、コンビニに並ぶチロルチョコ
幼い私の胸をわしづかみにしたのは、間違いなくコンビニに並ぶチロルチョコだった。


価値は、それを目にする人、手に取る人によって様々である。
その「様々」に、果たして値段がつけられるだろうか。


息をのむほど美しい光景に出会う時
果てしなく深い悲しみに出会うとき
その心の高ぶりに、その胸の痛さに、値段をつけられるだろうか。


価値と向き合うことは、ときに感情が揺らぐ瞬間を産む。
そしてときには値段をつけられた存在のなかから、数字にはできない価値があることに気づかされる。







財布を開けば、きらりと光る一円玉、十円玉、百円玉。数枚の千円札。
いつもと変わらない光景だが、なんだか今日は違ったものに見えた。

おそらく今後コンビニに入った時、目に入る駄菓子コーナーは、いつもより輝いて見えるのだろう。

財布の中から取り出した十円玉の錆び臭さに、懐かしい気持ちになった。


「ひとつだけ」忌野清志郎&矢野顕子 - YouTube