ありをりはべり

日常のひきこもごも

HAPPY

 

 祖母が亡くなった時、人っていつ死ぬかわからないんだなぁ…と思った。

神様的存在だった忌野清志郎さんの訃報を聞いた時、神様さえも死んじゃうんだなぁ…と呆然とした。

 

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祖母に対して「ありがとう」と思う瞬間が、たくさんあった。

それは、細い指で制服のスカートのほつれをちゃちゃっと縫い直してくれた時であったり

祖母が住むアパートに放課後時々遊びに来る私を、夏でも冬でもベランダに出て待ってくれているところだったり。

なのに一度も、ちゃんと「ありがとう」を伝えたことがない。

 

でも、亡くなってしまってからではもう遅いのである。冷たくなって閉じた瞼は二度とあかないし、その声をきくこともできない。

清志朗さんにあてて書いたものの、机の引き出しにしまったままだったファンレターだって、彼のもとに届くことはないのである。

 

よく「ふつうは照れるようなことをさらっというよね」と言われる。

実際私は、たまにとんでもなくくさいことを口にする。

自覚もあるし、照れてないかといわれれば猛烈に照れている。「なにいってんのかしら自分、あーやだやだやっちゃったよ今日も」なんて一人できゃーきゃーしていたりする。

国語力に乏しい私が、精いっぱいの感謝を伝えようとしても、どうしても陳腐な表現しか引き出せない場合が多い。

 

それでも口にすることをやめないのは、人はいつ死ぬかわからないと知ったからだ。

死ぬ間際、しゃべれないほどまでの状態になったとき、そこにあるのは機能しない喉と力の入らない手足である。声と手に頼り切っている私は、もうどうやっても瞬間瞬間の自分の意思を伝えることができないだろう。

そんなときに「そういえばあれを伝えてなかった。二度と会えなくなるのに、いくらでも伝えられる時間はあったのに」なんて後悔したくない。

 

伝えることは、とても大切だと思う。

表現が下手でときに誤解を生んだり、受けとる側からするとオーバーすぎて「ほんとにそんなこと思ってるのか?」などと怪しまれたりすることもある。けれど下手でもなんでも、自分がその時できるいちばん近い表現で、自分の気持ちを伝えたい。

 

そうやって頑張って伝えたことを、後に「あの時ああいってくれて嬉しかった」なんて言われた時には、あぁ伝えたその時生きてて良かった、今もこんな嬉しい事を聞けて、やっぱり生きてて良かった。と思える。

 

先日、患者さんが「入院してみて、人はいつぶっ倒れるかわからんなと思った。けどこれまでの人生がハッピーだから、もう何があってもいいと思える」と話していた。

患者さんはにこにこしながら聞いてきた。「あんたはハッピーか?」

きっと祖母が亡くなる前までの私は、「どうですかねぇ…あはは」なんて気の抜けた返事をしていただろう。

けれどいまはすんなりと、笑顔でうなずける自分がいた。

「はい、ハッピーです」

と答えた私を、患者さんはとてもあたたかな笑顔で「いいねぇ」と受け入れてくれた。

 

人が一生で与えられる時間は平等ではない。

それはネガティブなことではなく、終わりが来るのは当然のことだ。

だからその時まで、後悔しない人生にしたい。

ハッピーに生きるには?

それは自分がハッピーだなぁと思ったことを、相手にそのまま伝えることだと思う。自分が感じたあたたかい気持ちが、誰かにも届く。そうやってぐるぐる、気持ちも笑顔も、巡り巡っていけたらと思う。

 

これからも色々なひとと出会う中で、その時感じた嬉しさ、楽しさを出来うる限りの方法で伝えていきたい。そしてさまざまな人と出会えることに、常に感謝の気持ちを忘れずにいたい。

 

私と関わってくださる全ての方へ、ありがとう。

いまこれを読んでいるあなたも

未来でこれを読み返しているかもしれない私へも

 

ありがとう。

 


ハンバート ハンバート "ぼくのお日さま" (Official Music Video) - YouTube