ありをりはべり

日常のひきこもごも

あたたかな沈黙

物事を説明したり気持ちを伝えるのが下手で、仕事でもプライベートでもそれでよく人を困らせてしまう。
私自身はお喋りが大好きなので、そんな自分に正直残念な気持ちになる。好きと得意が一致しないことが多い。

初めて誰かと話をする場ではわくわくしながらもだいぶ緊張する。
すべりだしはよくても、話題がつき沈黙が降りると途端にどうしていいかわからなくなる。沈黙を恐れてマシンガントークをしてしまったときなんかは、あとで相手にとても申し訳ない気持ちになる。




沈黙。

わたしにとって、 沈黙は二種類にわけられる。
どう収拾していいやらと悩むような悶々とした沈黙と
ただゆったりと温かい時間が流れる沈黙。

長い間一緒に過ごしてきた人が、必ずしも後者の沈黙を持つとは限らない。
例えば母と私の間に流れる沈黙は前者が多い。(それは常時喋っているような母が黙る瞬間というのが、怒りを湛えているときか空腹時に限られているからかもしれないが、、)


そして最近、心地よい沈黙を持つ人に出会う機会があった。
互いに一言も言葉を交わさないそこには、ただ、平日の夕暮れとわずかな音だけがあった。

言葉の無い瞬間ほど言葉を意識する。

言葉のない時間の中で、あらためて考えてみた。


言葉は、とても便利だ。
なんとなくまぁこれでしょうというキーワードを選べば、大まかにでも意図するものを伝えることができる。
それで人を喜ばせたり悲しませたりという効果もあるのだから偉大だと思う。

しかしときには相手を喜ばせようと用いた肯定的な言葉が、ストレートな否定的な言葉よりもこころを深く傷つけたりもする。

どんな些細な一言でも、人の心を動かす要素を持っている限り、どちらに転ぶかはわからないものだと思う。
最終的には受けとる側に全てが委ねられるということは、静かな危険を孕んでいる。


私にとって言葉のやりとりは、楽しくもあり、気付けばすこしばかり肩が凝るものだったりもする。


だからこそ、その幕間に心地よい沈黙に出会えたとき、
ありのままの自分がやっと佇める場所を見つけたような気持ちになる。
椅子とりゲームで空いている席に飛び付くようなものではなく、ずっとまえから用意されていた席があることに、そのとき初めて気づくような。

心地よい沈黙は否定も肯定もしない。
ただそこにあるだけである。


なにかを許すとか、受け入れるというのはこういうかんじなのかなぁ
なんて、先日その沈黙のなかでぼんやりと思った。

ながいながい沈黙は、じっと傍に寄り添い、いつのまにか消えていた。


あれ以来、走り続ける日々の中で、その沈黙がわたしの胸をあたたかくさせている。




心地よい沈黙をくれた方へ
この場に感謝の気持ちを残したいと思う。

そして自分も、誰かに幸せな沈黙を与えられるようなひとに、なりたいと思う。