国語が苦手
国語が苦手だった。
みんなが点数を取れている箇所ほど間違いがおおく「読解力が…ねぇ」と国語の先生をよく困らせていた。
特に難しかったのは「作者はこの作品から何を伝えたかったでしょう」という類の問題である。
私がもし作家だったとして、自分の作品にこんな質問をくっつけられた日にはきっととても残念な気持ちになる。「そんなの読んだ側が好きに思えばいいことだろう」としか思えない。
なんとなくで当たり障りのないふうに答えを書くとたいていあたってしまうけれど、同時にとても悪い事をしてしまったような気持ちになる。
私にとっての赤丸の価値が一気に下がる瞬間である。
人が何かの行動をとるときの本当の意図、なんてわからない。たとえそれを言い当てたとして、なんだかそれもつまらないな…と思ってしまう。
発信することの楽しみは、作品が一人歩きをすることではないかなと思う。それぞれがそれぞれの背景と価値観を持って、ひとつの作品を軸にあーだこーだ思いをめぐらす。
物書きの気持ちはわからないけれど、私が物書きになるならそういう作品を書きたいと思うし、「これはこういうことを感じてほしくて書きました」なんて言いたくない。「読んでくれてありがとう、あとは任せます」で十分だ。
小さいころ、趣味で点描を描いていた時、通っていたピアノ教室の先生がそれを気に入り教室の壁に絵をかざってくれたことがある。ある日、絵をじっと見つめている親子がいた。母親は「とても綺麗だ」と絵を褒め、娘さんは「気持ち悪いね」と顔をしかめていた。
とてもとてもうれしくて、猛烈に照れたのを覚えている。小学生の落書きが、誰かに何かを思わせたのである。こんなに嬉しい事はない。
ありがとう、嬉しい。と私が言うと、母親は複雑な表情を浮かべ、娘さんはもっと複雑な表情で私を見ていた。
またいつか絵をかいた時、誰かの心に触れられたらいいな。
本棚の奥から、点描を書いていたころつかっていたペンが出てきたとき、ふと思った。
「作者はこの作品から何を伝えたかったでしょう」
答えのないことから無理やり答えを探す時間が、憂鬱で堪らなかった。
「お好きにどうぞ」いつでもそう言える私でいたい。
*昨日の嬉しかったこと
初バカール!ピザもハムもとても美味しかったので、生まれ変わるならこの店のハムになりたい…いやピザ生地でもいいし上に乗る具材でも…とか訳の分からないことを考えた。ありがとうございました。