言葉を越えるもの
これまで、まったく知らない赤の他人に「殺すぞ」と言われたことがある人がどれくらいいるだろう。
私は、今年に入って何度かそういう場面に遭遇している。
そういった人たちが社会に適応できるよう関わっていくことも、私の仕事のひとつである。
はじめましてで始まるはずのファーストコンタクトが「死ね」だとか「殺す」からだと、自分はとんでもなく価値の無い人間なのではないかという気持ちになる。感情を左右されすぎてはいけないとわかっていても、悲しい。
けれど、そうなるのは目の前のこの人に認められたいという思いがあるからこそであり
拒否的な態度を示すこのひとも、孤独から誰かの助けを常に求めていたという背景があるのを知ったとき、奥底にもっているものは互いに一緒だという考えに至る。
死ねと言われたら「まじかー、死んだほうがいいのかな私…」とへこみ、
殺すぞと言われたら「本気で殺されないかな」と恐怖に慄いたりと
逃げ出したいときも何度もあったが、向き合っていきたいと思い直してこれたのは、やっぱりおんなじ人間なんだし、せっかく出会えたんだし、何かできることがあるなら、やれるとこまではやりたいなぁと思えたからだ。
この前相手にそれを伝えたら、「頭がおかしいババア」と言われた。その通りかもしれない。
…人間がもっと単純な生き物だったのなら、彼らのいう生きづらさは、幾らかは軽くなっていたのではないだろうか。
初めは他の生き物と同じように、ひとつの心臓を持つただの生命体のはずだった。しかし知恵を持ち、社会を築き、その中で階級と差別が生まれた。肌の色、宗教、服装、学歴等々、もうなにからが境目かわからないほど。
「みんなちがってみんないい」金子みすずのこの言葉が好きなのだが、その精神が万人に浸透するのはなかなか難しいことなのだと思う。そういう私も無理やり自分に言い聞かせてばかりだ。
心ない表札は陰となる人々を追いやり、ときには無関心という暴力で全てをねじ伏せてしまう。それが冷めた目より鋭い言葉よりも心をえぐるものであることを、彼らの人生から知る。
激しく怒りを表し辛辣な言葉を浴びせる人も、たしかに自分がここにいるという存在を主張することに必死なのだと思う。
ファーストコンタクトでは、どれだけ暴言を吐かれても目の前を動かないと決めている。相手の目線の高さに合わせて、一瞬でも視線が合う時間を作る。
あなたがここにて、それを認識している私がいる。
この要素が実はとても大切なことではないかと思う。
勿論彼らの言う苦しみを、それで和らげることができるとは思わないが、
つたなくても、その一瞬を大切にしていきたい。
やっぱりなんだかんだ傷つくは傷つくけれども、きっと鋭い言葉は言うほうもしんどい。それでおあいこなのだ。
ひっかかれた傷だとか、ちょっと痛む記憶だとかを
すこし引きずりながらも、
そうやって真正面に立ったり、のらりくらりかわしつつを繰り返して
彼らとの一瞬を、待っている。