拝啓、
3か月ほど前から、文通を始めている。
千葉、宮崎、東京に住む3人の女性と週1回から月1回。それぞれでだいぶ開きはあるものの、お互いの時間の合間でやりとりをしている。
文通をやろうと思いたったのは、ある日、棚整理の際に使っていないレターセットがいくつかあるのを発見したからだ。
久しぶりに手紙を書いてみようかと思ったが、送る相手と言えばいとこのお姉さんか両親くらいで。しかも現在はそう定期的にやっているわけでも無いので、こんにちはお久しぶりと突然手紙を送ることは、なんだか気が引けた。
なんなら文通してみるかと。おそらく思い立ったら行動にうつのは早いほうで、棚の整理をしつつ文通相手を募集するサイトに登録し、それから3時間で現在の3人の方と文通をすることになり、その日で3通の手紙を書いた。
文通は小学生以来のことで、全く面識のない相手へ手紙を書くという久方ぶりの行為に、だいぶ緊張した。字が汚いのがコンプレックスなのだが、初回はそれに手の震えまで加わり何枚か没にした。おまけに誤字脱字も多いので、これを人に渡すのかというレベルの仕上がりで自分には相当がっかりしてしまった。
好きな字体を選べて、かつ書いてはすぐ消せるパソコンは便利だ、とあらためて思う。けれど、チラシや公共料金のおしらせしか届かなかったポストに、ある日可愛らしい封筒が入っているのを見つけたときには、何とも言えない、すこしこそばいような嬉しさがやってくるので。いろいろ格闘しつつも虜になるのは早かった。
文通は某アプリのように、自分のメッセージが相手に届いたということが即座にはわからない。相手からの返事をもってしか、確実に届いたのかを知れない。
それは久しぶりに訪れた感覚で、そこに少々の不安を覚える自分に気付いたとき、いままで随分手元の小さな機械を中心とした生活を送っていたのだと思った。
そして他人から言葉を受け取ることをさも当たり前のように享受してきたけれども、伝えられない、またこちらにも届かないという万が一が存在することを思えば、さまざまな人の手を渡り、海をも超えてきた言葉の重みというものを感じずにはいられない。
ポストを開けた時の喜びは、旅を無事終えて届けられた、そしてあたたかな筆跡の向こうに、見知らぬ、けれどたしかに自分と繋がる誰かがいるという出会いの尊さにあるのだと思う。
汚い字をさらして、へたくそな文章で、ときどき誤字脱字を見つけてはへこみ、直しを加えながら、私はまた一通手紙を書く。
ばれまいと息を殺していたコンプレックスは、ペンと紙を前にすればすんなり隠れ蓑を引っぺがされてしまって、恥ずかしいことこの上ない。けれどいつかこのいびつな文字や、緊張しているわりに変に力の抜けた独特の筆圧だって、私にしかないものなんだと思える日が来るのかもしれない。
いつか、時間はかかるかもしれないけれど、自分だけにあてられた言葉が存在するしあわせを知ったように、自分の記す言葉も、大切にしていけたらと思う。
17歳女の zazen boys - KIMOCHI 弾き語り
式日
「女の子は、綺麗でいないとね」
普段口下手な祖母が繰り返し口にしたのは、女性にとって、身だしなみを整えることがいかに重要であるかということだった。
当時私は中学生で、友達に教えてもらいやっと眉毛のそり方を覚え始めたとろ。
祖母は私の残念な眉毛をみやっては、まるで捨て猫でもみるような目付きで、ほら座りなさい、やってあげるから。と鏡の前に座らせて、非常に遺憾そうな顔つきながらも私専属の美容部員へ変身してくれた。
そりそりそり。と昔ながらの、やたらと切れ味が良さそうな剃刀を、適度な力加減で優しく扱う。 ぼうぼうのまゆげに注がれる視線は真剣で、それは授業参観日に慣れない化粧を頑張っていた母の目つきによく似ていた。それまで祖母を母と似ていると思ったことはなかったけれど、指先の間から見えるその眼差しに、ああやはり親子なのだと、やけに感動したのを覚えている。
部活帰りに祖母の家に立ち寄ったその日、季節は夏で、網戸の向こうで蝉がけたたましく鳴いていて、まさしくうだるような暑さだった。
エアコンがない祖母の家は、今にも羽が取れてしまいそうな扇風機と、小さくあけた玄関のドアから吹く心もとない風だけで室内の空気を循環させていた。
それなのにいつもきれいにお化粧をしていた祖母は、まったく崩れさせることなくそれを保っていて。最早同じ女なのにそうでないような、ある意味魔女なのかというような気持ちで齢70の祖母を見ていた。
今朝、鏡の前にたったとき、なぜだかふとあの夏の情景が浮かんで、少し可笑しくなった。中学生のときの私もいまの私も、やっぱり眉毛を整えるのが苦手で、もう書くのも面倒だからとほぼはやしっぱなしである。
こんな状態をみたら、祖母はなんていうだろう。ついでに、この秋お嫁にいくんだよと、伝えたら。
なんてことだって、びっくりして。また戸棚の奥から、やたら切れ味のよさそうな剃刀をとってきてくれるだろうか。
とても華奢なのに、波瀾万丈な人生を歩んできた故か力強さすらも感じたあの背中が、瞼の裏に過る。
大切なときには祖母が縫ったあの着物を着ると決めていたから。せめて秋までには、着物に恥じない女性にならなければと、すこしだけ心が引き締まる。
うだるような暑さと、洗面所にぽつんと置かれたピンクの眉毛用剃刀。
蝉のけたたましい鳴き声を聞きながら
もう、この世にはいない祖母と、懐かしいあの家を思い出している。
子供のくせに
子供のくせに、と言われることが、子供のころは本当にいやだった。
あらゆる失態の原因や大人の言う不都合な事実を、年齢を根拠に言われてしまう。
幼い私は、自分は幾つだからまだ不十分なのだ、と思うことに非常に憤りがあった。
やっと、ちょっとは大人を名乗ってもいいくらいの年齢になって。
果たして、あの頃の自分は本当に、大人が言うような力ない、理解の足らない人間であったのだろうかと考えてみる。
子供はたしかに、大人のように言葉を使えない。だがだからこそ、言葉の端々にある温度の変化、語尾に含まれる鋭さには敏感だ。
あるときは一瞬の表情でそれを読み取る。
自分がいま、なにをされ、なにを言われているのか。もやもやとしていて形には表せられなくても、思い起こせば、いま言葉に直すと当時も案外それに近いものを感じていたのだ。
当時小さな子供であった私にとって、大人は壁だった。
子供の癖に、と
何年も先にある「大人」という表札を頭上で掲げられて
もうそこからは何も言えなくなってしまう。
先月またひとつ年を取った私は
私と、私の友人たちを笑ったそのひとの年齢をとうに過ぎた。そして思う。
月日は、それだけでは何も意味をなさない。
限られた手段を手に、人一人に向き合おうとするその目をはね除けてはいけない。
むしろ無用な壁を作らず、表札を掲げず、自分の答えを待つ誰かがいる。その尊さを知らなければならない。
いつのまにか、コミュニケーションに利害を織り交ぜるようになってしまった自分自身も、戒めなければならないだろう。
小さい頃
子供の癖に、と言われることが嫌だった。
果たして彼らはいま
大人の癖にと言われれば、何を思うのだろうか。
遠い日は二度と帰らない
音楽においては、スタート(幼少期)こそ忌野清志郎とツェッペリンだったが、その後は普通に邦楽ロックなどを聴いていた。休みを取ってはフェスに行っていたし、ライブハウスで飛んだり跳ねたりヘッドバンキングするのが好きだった。だった、といってもほんの二年前までそうだったので、最近ともいえるが。しかし思えばだいぶ早い時期から「自分はこれじゃない」感じにうすうすは気づきはじめていた。
ライブで仲良くなった人にはアーティストのファンクラブに入会しているひとも少なからずおり、勧められてはいたけれど。
すぐに売れてしまうチケットを取るために、朝いちばんにコンビニに走ったりすることが億劫になっていた頃にはもう、もはやファンクラブに入るなんてどこぞの話だった。
自然と同年代のひとたちが聞いている音楽から遠のいて、最後にヘッドバンキングしたんのはたぶん、一昨年の夏とかではないだろうか。
こぶしを突き上げたりぴょんぴょん跳ねたり、そういうのも楽しかったけれど。
後半はもう、音楽をちゃんと聴いていたかというとそうではなかったかもしれない。
今現在聴いている音楽といえば渚ゆうこや霧島昇、そして寺尾沙穂といったかんじ。昭和のにおいぷんぷん、若しくはふわっとしつつ鋭い言葉に刺されるような、そんな音楽だ。
ぬくさや冷たさがしずかに侵食してくるかんじが良い。
昭和、平成、昭和ときて、次はどこにゆくだろう。否、年代のくくりでどうこうではないのか。ただ、兎にも角にも、京都に行きたい。
胸の振り子
中学生のころまでは、学校であがた森魚とかたまとか言っても通じる人なんてひとりも居なかった。だから高校生にあがったばかりの春、私の好きな音楽を私以上に語れる彼に出会えたのは、やはりとてつもなく幸運なことであったのだと思う。
彼はバンドマンだった。バンドを組んでいるひとなんていうのは小さな島でも数えきれないほど居たが、中でもブルースを主としていた彼は特別異色を放っていた。
時々ハーモニカを混ぜつつギターをかきならして歌う姿は誰にも負けず格好良かった。
ひたすらシンプルでいて、圧倒される。バンドももちろん良いけれども、彼の場合はソロのほうがより声も音も生きていたように思う。
実を言うと保育園が一緒で、高校で再会した彼は、思い出のなかではいつも鼻水を垂らしていた。おかげで園の子たちのあいだでは名前の前に「洟垂れ」なんてつけられていたのに、人は変わるものだ。
どれだけ仲良くなってもきっと、あの時は泣き虫で、鼻水垂らしてしてたのに立派になったよね、なんて言えないとは思うが。
クラスが一緒になった年にはさんざん音楽について語った。私の知らないアーティストをあれこれとすらすら口にしていく彼は、友人であり憧れの存在であった。
高校卒業のときになって、私は家庭の事情で夢を諦め看護師になる道を選び、彼は東京で音楽をやっていく道を選んだ。毒舌なひとだったので、きっと、お前も周りのみんなと同じで堅実な道へ行くんだなと笑われるかと思っていたけれど、彼は何も言わなかった。
東京へと旅立つ前日には、いつも通りの他愛もない時間を過ごし、
別れ際にはこれまで島を訪れたアーティストと共演した際の音源を手渡されて、これが別れだと思った。
ライトに照らされて歌う彼を、今でもときどき思い出すけれども、彼の目指していた音楽はやはりひたすらに素敵だった。素敵だった、なんて一言でしか表わせられない自分が恥ずかしいほどに。
今もどこかで歌っているのだろうか。二度目の引っ越しでだいぶ減ったCDの列、安っぽいプラスチックケースのなかにそれは眠っている。もうCDを再生しなくたって記憶からありありと取りだせるようになったのはいつの頃からだったか。
粗削りで、力強く、やさしい。
きっとまだまだ、この先も。声も音も色褪せぬまま、傍らにその音楽はあり続けるのだろう。
[LIVE]Char 山崎まさよし 斉藤和義 - Sweet Memories
大丈夫の乱用
麗らかな午後、那覇。
今日も救急車のサイレンが街中に響く。
「昼間っから大変だねぇ」と私と同じように信号待ちをしていたおばさんが口の端をにっと上げて言う。
笑っているのかと思ったけれども、見れば紫がかった眉墨は八の字になっていて、唇は小さくわなわな震えていた。どうやら笑っているのとは違うようだ。
そうですねぇ、と気の抜けた返事をして、救急車の助手席に人がいなかったのを確認していた私は
一人は心臓マッサージでもしているのかしらと僅かな予想を立てた。
こんな穏やかな陽気の日に、誰かは苦しんで、死んで行くのだ。
そう考えたら、これから久しぶりに会う友人とのランチが待っているというのに、途端に心が陰った。
この横断歩道を渡ったら行きつけのカフェに着く。ランチが終われば家に戻り支度をして、仕事に行かなければならない。
やっぱり自分は看護師などには向いていないかもしれないと、月に何回か訪れる自問自答にまた出会う。
緊迫した状況で、患者若しくは患者の家族から問われる「大丈夫なのか」には
いつも、どう答えていいのかと悩む。
仕事をしたばかりの時はその言葉の重みを知らず、恐れもなく「大丈夫ですよ」などど答えていたが、
思い返すと、とんでもないことをしていたものだ。
医師が畳み掛けるように指示をだして、そのときできうる最善の治療を、つぎにつぎにと目まぐるしく展開していく場面で
誰かに大丈夫だよと言ってもらいたかったのは、むしろ自分自身だった。
大丈夫です。
その言葉は、半分は足のすくむ思いでいた自分に向けて言っていたのだ。
仕事をして半年ほどたったときに「なにが大丈夫なのか言ってみろ」と患者さんに怒鳴られて、やっと言葉の重みを知ることになるのだが。
かと思えば「大丈夫だといってください」とぼろぼろと涙をこぼす患者さんを前に
やはり言葉はなんて大きな力を持つのかと
自分の手には負えないものに、やや怖くもなったのだ。
もう言葉など要らないと思えたとき、1つの大きな壁を乗り越えられるのだと思う。
「そんな、なにを言えばいいのかというような顔をするんじゃないよ
もう僕は死ぬんだろう」
と身体中黄疸になり、目の前で吐血した患者さんは最期にそう言って、笑ったから。
一台来たと思ったらまた次々に救急車がやってくる。
看護師に向いているなんて、一度も思ったことはないけれど
だからこそいつだって目標は消えずにそこにあって、反省してはつぎにつぎにと前に進めるのだろう。
大丈夫、と優しく背中をおす声に支えられて
真っ白で真っ赤な喧騒のなかで、少しずつ自分の居場所を見つけ始めている。
赤ん坊
2014年11月、酷い寝不足で迎えた朝はやはり最悪だった。
都会をすこし離れたところにあるその駅のホームには、スーツを来た男性が数人と、着飾った綺麗な女性が何人か。
電車が近づいていることを知らせるアナウンスとともに、赤ちゃんを抱いた女性がホームに一人降りてくる。
女性はまだ、あー、うーと喃語しか話せないのであろう赤ん坊に、さむいねと小さく語りかけていた。
秋冬の朝というのは、日差しが夏のそれとは違い随分柔らかだとおもう。
着ている安物のセーターの、なかなかざっくりな編み目から入り込む冷気には思わず身震いしてしまったが、しょうがない、1000円くらいだったしと、どこかの国で作られた化学繊維を責めることは止めた。
黄色い線の内側に立てと聞きなれたアナウンスが入って、冬に向かう季節の冷たい風を纏い、電車がホームに滑り込んできた。
これに乗れば、あとは二つほど乗り換えて、ただ揺られるだけだ。
がたんごとんと揺れる電車、先ほどホームで一緒に突っ立っていたサラリーマンは、わたしの向かいに座っていた。
すこしくたびれたスーツを着ていて、靴の爪先は小さく剥げており、目線は斜め下で、なにかとても重大な宣告を受けるのを待っているみたいに、唇をきゅっと結んで、浅く息をしていた。
横におかれた革のビジネスバックが自棄にお洒落で、それがなんでか物悲しげに写った。
なにがあったのかと一瞬思って、
考えるのをすぐやめた。
きっと私だって、こんな麗らかな土曜の朝、仕事に向かうのであろうこのサラリーマンと、おなじ顔をしているのだ。
誰かに必要とされたいと、思って。
思えばずいぶん似合わないことに、無理をして、手を出していた。
結果待ち受けていたのは、好きでもないものを好きといい、嫌いなものを嫌いとも言えない。そんな虚しい時間だけで。
数歩離れたところに立つ、赤ん坊を抱いた女性の後ろ姿。
あたたかな両腕に抱かれて、やさしくあやされて、赤ん坊はすやすやと寝息を立てていた。
一瞬、もう赤ん坊になりたいとさえ思った自分が、酷く恥ずかしくて、何だかとても残念だ。と思った。
残念だ、がっかりだ。
そんな言葉が、ぴったり。
不意に電車がぐらっと揺れて、力なくぼうっと立っていた為に体が揺れに持っていかれた。慌ててつり革をぎゅっと握り直す。
向かいに座るサラリーマンは、一瞬急に近づいてきた私にびくりとして、そしてまた唇をきゅっと結んだ。
がたんごとんと、電車がリズムを取り戻す。
乗客はみな、涼しい顔でそれに揺られていた。
そのとき、先程まで眠っていた赤ん坊が急に泣き出した。
おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。
細く、絞り出すような声で赤ん坊は泣いた。抱く母は申し訳なさそうに周囲を見渡し、赤ん坊の背中をとんとんと優しくたたき、あやす。
大丈夫、大丈夫。
啼泣のあいまに聞こえる優しげなその声が、やけに耳に残る。
けれどそれと重なって、小さな貧乏ゆすりが聞こえてきた。あのサラリーマンだ。
見るとまたさらに唇をぎゅっと結んで、ぎろりと赤ん坊を睨んでいた。膝の上に組んだ手が、貧乏ゆすりにあわせて上下している。
なにかに追われているようで、追っているような。
切迫した表情で、泣き止まない赤ん坊をその目に捉えていた。
がたんごとんと、電車は揺れる。
目的の駅まであと10分だとアナウンスが流れる。
サラリーマンのきゅっと結ばれていた口が、ゆっくりと、わなわなと開かれていくのが見えて
背筋がひやりと冷える。
電車がまた、がたんと大きく揺れた。
このなかでたったひとりの、自分を無条件に愛してくれるひとの腕に抱かれて、赤ん坊は泣く。
目の前に現れた幸せのかたち、
本能のまま泣くということ
刺すような視線を受けているのに気づいて、母親の表情が強張ったのが見えた。
それでも
はじめはみな、小さな赤ん坊だったのだ。