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ありをりはべり

日常のひきこもごも

子供のくせに

子供のくせに、と言われることが、子供のころは本当にいやだった。
あらゆる失態の原因や大人の言う不都合な事実を、年齢を根拠に言われてしまう。
幼い私は、自分は幾つだからまだ不十分なのだ、と思うことに非常に憤りがあった。

やっと、ちょっとは大人を名乗ってもいいくらいの年齢になって。
果たして、あの頃の自分は本当に、大人が言うような力ない、理解の足らない人間であったのだろうかと考えてみる。

子供はたしかに、大人のように言葉を使えない。だがだからこそ、言葉の端々にある温度の変化、語尾に含まれる鋭さには敏感だ。

あるときは一瞬の表情でそれを読み取る。

自分がいま、なにをされ、なにを言われているのか。もやもやとしていて形には表せられなくても、思い起こせば、いま言葉に直すと当時も案外それに近いものを感じていたのだ。




当時小さな子供であった私にとって、大人は壁だった。

子供の癖に、と
何年も先にある「大人」という表札を頭上で掲げられて
もうそこからは何も言えなくなってしまう。

先月またひとつ年を取った私は
私と、私の友人たちを笑ったそのひとの年齢をとうに過ぎた。そして思う。

月日は、それだけでは何も意味をなさない。

限られた手段を手に、人一人に向き合おうとするその目をはね除けてはいけない。

むしろ無用な壁を作らず、表札を掲げず、自分の答えを待つ誰かがいる。その尊さを知らなければならない。

いつのまにか、コミュニケーションに利害を織り交ぜるようになってしまった自分自身も、戒めなければならないだろう。


小さい頃
子供の癖に、と言われることが嫌だった。


果たして彼らはいま
大人の癖にと言われれば、何を思うのだろうか。

遠い日は二度と帰らない

 

音楽においては、スタート(幼少期)こそ忌野清志郎ツェッペリンだったが、その後は普通に邦楽ロックなどを聴いていた。休みを取ってはフェスに行っていたし、ライブハウスで飛んだり跳ねたりヘッドバンキングするのが好きだった。だった、といってもほんの二年前までそうだったので、最近ともいえるが。しかし思えばだいぶ早い時期から「自分はこれじゃない」感じにうすうすは気づきはじめていた。

 

ライブで仲良くなった人にはアーティストのファンクラブに入会しているひとも少なからずおり、勧められてはいたけれど。

すぐに売れてしまうチケットを取るために、朝いちばんにコンビニに走ったりすることが億劫になっていた頃にはもう、もはやファンクラブに入るなんてどこぞの話だった。

 

自然と同年代のひとたちが聞いている音楽から遠のいて、最後にヘッドバンキングしたんのはたぶん、一昨年の夏とかではないだろうか。

こぶしを突き上げたりぴょんぴょん跳ねたり、そういうのも楽しかったけれど。

後半はもう、音楽をちゃんと聴いていたかというとそうではなかったかもしれない。

 

今現在聴いている音楽といえば渚ゆうこや霧島昇、そして寺尾沙穂といったかんじ。昭和のにおいぷんぷん、若しくはふわっとしつつ鋭い言葉に刺されるような、そんな音楽だ。

ぬくさや冷たさがしずかに侵食してくるかんじが良い。

昭和、平成、昭和ときて、次はどこにゆくだろう。否、年代のくくりでどうこうではないのか。ただ、兎にも角にも、京都に行きたい。

 


京都慕情 - 渚ゆう子

 

 

夕日とカレーライス

 

いつのまにだか、料理は私で、洗濯物は彼の担当と暗黙のルールができている。

けれど私の仕事が忙しいときは、毎度しっかりごはんが作れるわけではない。その日もやはり私は残業確定で、昼頃には帰る予定が夕ごろになりそうだった。

連絡すると、俺だって料理が全くできないわけではないから、たまにはお願いしてくれと言われたから、カレーの材料のじゃがいもとにんじんの皮むきをしておいてと頼んでみた。

 

疲労困憊で帰宅し、早速キッチンに行きまな板の上を見れば、ところどころ皮が残ったままのいびつな形のじゃがいもと、にんじんがひとつずつ。

 

ぽかんとする私に、おろおろする彼がいて、ダメだった?と聞く。

こらえきれずに笑って、これじゃあ少し足りないかもねと言ったとき、むくれてみせるものだから、また笑ってしまった。

 

テレビからは夕方のニュースが流れていて、明日は雨だと伝えている。窓の外は美しい茜色だけれど、これは前兆なのか。

テレビ画面の雨マークを見遣っても、空がきれいだねぇとそれだけ言葉を交わす。

自分なりに一生懸命やってみたのに笑われた彼は、まだ若干不服そう。

 

一口サイズになった、元いびつな形のじゃがいもがぷかぷか浮かぶカレーは、いつもより少しだけおいしい気がした。きっとそれは、終始笑って食べていたから。

 

足りないものはあって当たり前で、それでも互いに少しずつ空いた穴を埋めて、どうにもならないときにはまた考えれば良い。

家に帰れば貴方がいて、じゃがいもの皮むきもうまくはない、不器用なその手で、私の頭をくしゃくしゃと撫でる。そんな日々を、これからも紡いで行けたら。

 

夕日が薄い綿のような雲に沈んで、東のほうから藍色が滲み出す。

数種類のスパイスと、たまねぎの甘さがほわりと香る夕食の席。消えゆく間際の橙と檸檬色を見つめて、カレーライスと夕日は似ていると、ぼんやりと思った。

 

 


夕まぐれ 寺尾紗穂

 

胸の振り子

 

中学生のころまでは、学校であがた森魚とかたまとか言っても通じる人なんてひとりも居なかった。だから高校生にあがったばかりの春、私の好きな音楽を私以上に語れる彼に出会えたのは、やはりとてつもなく幸運なことであったのだと思う。

 

彼はバンドマンだった。バンドを組んでいるひとなんていうのは小さな島でも数えきれないほど居たが、中でもブルースを主としていた彼は特別異色を放っていた。

時々ハーモニカを混ぜつつギターをかきならして歌う姿は誰にも負けず格好良かった。

ひたすらシンプルでいて、圧倒される。バンドももちろん良いけれども、彼の場合はソロのほうがより声も音も生きていたように思う。

 

実を言うと保育園が一緒で、高校で再会した彼は、思い出のなかではいつも鼻水を垂らしていた。おかげで園の子たちのあいだでは名前の前に「洟垂れ」なんてつけられていたのに、人は変わるものだ。

どれだけ仲良くなってもきっと、あの時は泣き虫で、鼻水垂らしてしてたのに立派になったよね、なんて言えないとは思うが。

 

クラスが一緒になった年にはさんざん音楽について語った。私の知らないアーティストをあれこれとすらすら口にしていく彼は、友人であり憧れの存在であった。

高校卒業のときになって、私は家庭の事情で夢を諦め看護師になる道を選び、彼は東京で音楽をやっていく道を選んだ。毒舌なひとだったので、きっと、お前も周りのみんなと同じで堅実な道へ行くんだなと笑われるかと思っていたけれど、彼は何も言わなかった。

東京へと旅立つ前日には、いつも通りの他愛もない時間を過ごし、

別れ際にはこれまで島を訪れたアーティストと共演した際の音源を手渡されて、これが別れだと思った。

 

ライトに照らされて歌う彼を、今でもときどき思い出すけれども、彼の目指していた音楽はやはりひたすらに素敵だった。素敵だった、なんて一言でしか表わせられない自分が恥ずかしいほどに。

 

今もどこかで歌っているのだろうか。二度目の引っ越しでだいぶ減ったCDの列、安っぽいプラスチックケースのなかにそれは眠っている。もうCDを再生しなくたって記憶からありありと取りだせるようになったのはいつの頃からだったか。

 

粗削りで、力強く、やさしい。

きっとまだまだ、この先も。声も音も色褪せぬまま、傍らにその音楽はあり続けるのだろう。

 

 


18才のブルースマン

 
[LIVE]Char 山崎まさよし 斉藤和義 - Sweet Memories

 

怒りの処理

ふつふつと黒い感情が沸き上がって、どうしようもならないとき。ついには自分の手の内には留まれずに、言葉や表情にとげが出てしまう。起き抜けのぼんやりしているときや日が陰って夕暮れがやってくるころには、やさしさを持てなかった日のことを思い出して、こんなに悔やむのならあの時もっと無理をしてでもうまくやればよかったのだ、と悔しくなる。

 

けれども人間に、自分を責めるという行為があってよかった。

ふっとわいてきた怒りや憎しみは自分の予想、過去に体験した強さを上回った場合、衝動的な何かに変わりやすい。人はそれが物的な行為に変わる前に、一度立ち止まる、そして自分を責めるという道にそれることができる。動物ならばより極端でおぞましいことになりえただろうことも。

 

怒りの処理というのは本当に面倒だが、いくつかの選択肢が用意された環境があることは、きっとある意味では幸せでもある。

泣きながら信頼する誰かに打ち明けたり、遠くまで車でドライブしてみたり、最初から最後まで振り返ってみたり。自分を責めてみるのもその一つで。どっちが全部悪いなんてことはない、自分の落ち度を探すことは大切なことだ。

なにより遠回りできるものと時間があることを、当たり前だと思ってはいけないと思う。

 

堂々巡りの自問自答など、無心になるための行為などなんの意味もなさない、と言われればそれだけのことだが、意味や無意味を考える前に、とりあえず何かしら侵襲のないかたちで行動を起こすことは重要ではないだろうか。

 

先日はどうにもこうにも消化しきれないことがあった。怒りを外に放出することもできず脳みその中にぎゅうぎゅうに詰めることで耐えていたため、ひどく疲労していた。帰宅してから遠出、凝った料理をする、とりあえず泣いてみる、歌ってみるなどいろいろ考えみたが、何より疲れていたのでとりあえず泥の様に眠った。おおよそ七時間は眠ってしまい、空腹で起き、冷蔵庫の残り物をかたづけるに徹した。そして風呂に入って冷たい麦茶でも飲めば、もう脳内をぱんぱんにしていたあれこれはしゅんと小さくなっていたのだ。

私の怒りなんてこうも単純なものかと少々呆気にとられたけれど、きっと私なんてそんなものなのだ。そう思えばなんだか楽になってしまった。

生理的欲求が満たされて、精神的苦痛はほんの雀の涙ほどになって、親しい友人から元気にしているかと連絡を受ければ、もうすっからかんだ。

 

 

学生のころに繰り返し勉強したマズローはやはり間違っていなかったと、私はかの偉人に尊敬の念を抱いたのだった。

 

僕の娘は朝青龍

昨年末頃から、通う美容室を変えた。
特に理由はなく、暇をもて余していたときになんとはなしにホット○ッパービューティーで検索した結果だった。
あんなきらきらしたピンク色のサイトを開けるのは久しぶりで、最初は何だかいけないことでもしている気になってしまった。きっと流行に弱い女性ならこの気持ちを分かっていただけるはずだ。

その美容室は、すこし寂れた住宅街の一角にあり男性オーナーが一人で切り盛りしていた。
キラキラしたサイトの背景から、店内写真のレトロさが絶妙に浮いていてそこが決め手だった。

予約をし実際に行ってみると、店はやはり写真通りの、美容室というよりは理髪店みたいな言葉が似合う古きよき建物だった。
しかしなによりもオーナーが独特なキャラクターだったのが印象的だった。

美容師というと、つばの長い帽子を被っていたり、ファッション雑誌からそのまま出てきたような格好をしているもんだと思っていたが、オーナーは全くそんなものを纏っていなかった。
もさっとした黒髪に、くたびれたシャツにジーンズ。よれよれのエプロン。
何だかもくもくと家庭菜園や園芸などをしているのが似合いそうだ。

予約していた者です、と伝えると、もそもそとじゃあどうぞ席にと告げられ案内される。

鞄は置き場がわからなくて、席についても膝に抱いたままだったのだが、特になにもいわれなかった。けれど上着はハンガーにかけますかと言って貰えた。
コーヒーですと言われて出されたのは冷たい麦茶で、カットのあと顔にかかった髪の毛を取りたいというとブラシと手鏡を渡された。
予想外のセルフサービスに動揺し、すこし吹いた。

けれども思いの外、仕上がりは自分の想像していた以上で、ケアの方法も細かく教えてくれた。

最後にはここは美容室なのに「なるべく自分でケアできるものはしたほうがいいっすよ、美容室は高いですからね、美容にかけるお金は減らせるとこは減らしたいじゃないですか」等という。

それを美容師さんが言ってしまって良いのですか、と聞くと「だって自分が客ならそうしますからねぇ」とぼんやり言葉にしたので、いよいよけらけらと笑ってしまった。

基本的にぼんやりとしているが、もったり続くトークからはさりげなくきつい毒舌も飛び出す。

実際にカットしてもらったあとの満足感もそうだが、なにより独特のキャラクターに惹かれ、気づけば通いだしてもうそろそろで5ヶ月ほどだ。


先日など、最近オーナーには長女が生まれたとの話になり。それじゃあいま可愛くて仕方ないんじゃないですかと返すと
「いやぁ、でもまだ赤ちゃんですから。もうちょっと大きくならないと可愛い、可愛くないはわからないですよ。いまは朝青龍ってかんじです」とばっさり言ってのけて、また盛大に笑ってしまった。
Facebookや、Twitterや書籍などでイクメンが取り上げられる今、こんなにも堂々と娘を朝青龍と言える人がいたとは。

自分自身も接客業なので、仕事中は相手に対して失礼のないようにと気を遣う。もちろん何気ない会話でも、ネガティブな言葉は出さぬようにしている。

けれども客として店員を見るとき、お世辞やうわべだけの態度ではなく本当にそのとき思っていることを伝えてもらえたら。
こうなりたい、あれがほしいという具体的なイメージを持っているものにとってはその正直さは吉とも出るのであろう。

難しいバランスだが、嘘と真実は絶妙な塩梅で混ざれば笑いにもなれる。


娘を朝青龍とはいえないかもしれないが。
たまに逃げたとしてもやはり、真実に向き合うことをやめてはいけない、と思った。

取敢えず、母について。

久しぶりに母とメールをしていてふと思ったのは、そういえば一緒に歩いていても親子と思われなかったり、友人などに母を紹介すればだいたい決まって「似てないね」と言われることだ。

私は見た目が父よりで、さらに趣味も父と共通のものが多い。
父は、休みになると子供たちを町のライブハウスや図書館に連れていってくれた。
対して母は、子供は取り合えず何でもいいから外に出ていろとほっぽりだし、自分は無料でコーヒーが飲めるからと早朝からガソリンスタンドの待合所でたむろしているような人だった。ガソリン入れてないけどトイレットペーパーも貰えたのよと、よくわからない自慢話されて反応に困ったのを覚えている。

母は接客業をしており、お客さんに、なんだか小型犬みたいですねと言われたことを可愛らしいとの意と捉えて喜んでいたのだが、小型犬とは意思がつよく喧嘩っぱやいものだとこの間し⚫ら動物園で言っていた。私、そして私の兄弟の間ではチーターじゃないか、で満場一致だ。

そんな、小さくて可愛らしくてちょっぴり猪突猛進で短気が見え隠れする母だが、
結構なトーク力の持ち主だ。

某や●だ電気、不動産、車屋などで、度々斜め上からの鋭い切り口で商品を値切る姿を見ていたが、
やはり普段の家族の会話のなかでも、ときどきジャパネットたかたを彷彿とさせるようなことを言ってくる。

そんな母の前で、好きなものは漫画、アニメ、バンドなインドアな母以外のわたしたち家族はさながらライオンの前のネズミみたいなもので、専ら家族間の会話の主導権は母だ。

今朝きたメールでは、父に一緒にライヴにいこうと誘ったのに、やや振られぎみであるとご立腹の旨が記されていた。
年齢を問われるといまだにめげずに「何歳に見える?」と聞いてしまう60近い母も、やっぱりきっと、乙女な部分もあるのだろう。
毎年、父の誕生日になると「誰もお父さんにおめでとうなんて言ってあげないだろうから、あんたたちメールしてあげなさい。これを⚪⚪(兄の名前)にも回すように」と優しさか嫌みか、絶妙なあたたかさの連絡網をまわすことから、恐らく母なりに父を思いやっていて、なんとか仲良くやっているはずだ。


世の中は弱肉強食、と小さい頃から母に教わったことで、随分早くに現実主義な感覚を持つようになった。
いま思えば、そのあいまあいまで父が読ませてくれた漫画や、聞かせてくれた音楽は時々しょっぱい現実を忘れさせてくれていたし
この独特なバランスの夫婦が「普通ぽいのになんか変」といわれる私たち兄弟を形成したのだとおもう。


年に数回兄弟で食事をする際も、最近の母の異業については必ず語られることとなったが
そんな常に話題のつきない母に、私たち兄弟は、ときには対応に困り果て、兄弟間で悩みを共有しつつ、それでも可笑しさのなかにある憎めなさに、最後はいつも、ふっと笑ってしまうのだ。