ありをりはべり

日常のひきこもごも

胸の振り子

 

中学生のころまでは、学校であがた森魚とかたまとか言っても通じる人なんてひとりも居なかった。だから高校生にあがったばかりの春、私の好きな音楽を私以上に語れる彼に出会えたのは、やはりとてつもなく幸運なことであったのだと思う。

 

彼はバンドマンだった。バンドを組んでいるひとなんていうのは小さな島でも数えきれないほど居たが、中でもブルースを主としていた彼は特別異色を放っていた。

時々ハーモニカを混ぜつつギターをかきならして歌う姿は誰にも負けず格好良かった。

ひたすらシンプルでいて、圧倒される。バンドももちろん良いけれども、彼の場合はソロのほうがより声も音も生きていたように思う。

 

実を言うと保育園が一緒で、高校で再会した彼は、思い出のなかではいつも鼻水を垂らしていた。おかげで園の子たちのあいだでは名前の前に「洟垂れ」なんてつけられていたのに、人は変わるものだ。

どれだけ仲良くなってもきっと、あの時は泣き虫で、鼻水垂らしてしてたのに立派になったよね、なんて言えないとは思うが。

 

クラスが一緒になった年にはさんざん音楽について語った。私の知らないアーティストをあれこれとすらすら口にしていく彼は、友人であり憧れの存在であった。

高校卒業のときになって、私は家庭の事情で夢を諦め看護師になる道を選び、彼は東京で音楽をやっていく道を選んだ。毒舌なひとだったので、きっと、お前も周りのみんなと同じで堅実な道へ行くんだなと笑われるかと思っていたけれど、彼は何も言わなかった。

東京へと旅立つ前日には、いつも通りの他愛もない時間を過ごし、

別れ際にはこれまで島を訪れたアーティストと共演した際の音源を手渡されて、これが別れだと思った。

 

ライトに照らされて歌う彼を、今でもときどき思い出すけれども、彼の目指していた音楽はやはりひたすらに素敵だった。素敵だった、なんて一言でしか表わせられない自分が恥ずかしいほどに。

 

今もどこかで歌っているのだろうか。二度目の引っ越しでだいぶ減ったCDの列、安っぽいプラスチックケースのなかにそれは眠っている。もうCDを再生しなくたって記憶からありありと取りだせるようになったのはいつの頃からだったか。

 

粗削りで、力強く、やさしい。

きっとまだまだ、この先も。声も音も色褪せぬまま、傍らにその音楽はあり続けるのだろう。

 

 


18才のブルースマン

 
[LIVE]Char 山崎まさよし 斉藤和義 - Sweet Memories

 

大丈夫の乱用

麗らかな午後、那覇
今日も救急車のサイレンが街中に響く。

「昼間っから大変だねぇ」と私と同じように信号待ちをしていたおばさんが口の端をにっと上げて言う。
笑っているのかと思ったけれども、見れば紫がかった眉墨は八の字になっていて、唇は小さくわなわな震えていた。どうやら笑っているのとは違うようだ。

そうですねぇ、と気の抜けた返事をして、救急車の助手席に人がいなかったのを確認していた私は
一人は心臓マッサージでもしているのかしらと僅かな予想を立てた。


こんな穏やかな陽気の日に、誰かは苦しんで、死んで行くのだ。
そう考えたら、これから久しぶりに会う友人とのランチが待っているというのに、途端に心が陰った。

この横断歩道を渡ったら行きつけのカフェに着く。ランチが終われば家に戻り支度をして、仕事に行かなければならない。

やっぱり自分は看護師などには向いていないかもしれないと、月に何回か訪れる自問自答にまた出会う。


緊迫した状況で、患者若しくは患者の家族から問われる「大丈夫なのか」には
いつも、どう答えていいのかと悩む。

仕事をしたばかりの時はその言葉の重みを知らず、恐れもなく「大丈夫ですよ」などど答えていたが、
思い返すと、とんでもないことをしていたものだ。

医師が畳み掛けるように指示をだして、そのときできうる最善の治療を、つぎにつぎにと目まぐるしく展開していく場面で
誰かに大丈夫だよと言ってもらいたかったのは、むしろ自分自身だった。

大丈夫です。
その言葉は、半分は足のすくむ思いでいた自分に向けて言っていたのだ。

仕事をして半年ほどたったときに「なにが大丈夫なのか言ってみろ」と患者さんに怒鳴られて、やっと言葉の重みを知ることになるのだが。


かと思えば「大丈夫だといってください」とぼろぼろと涙をこぼす患者さんを前に
やはり言葉はなんて大きな力を持つのかと
自分の手には負えないものに、やや怖くもなったのだ。


もう言葉など要らないと思えたとき、1つの大きな壁を乗り越えられるのだと思う。

「そんな、なにを言えばいいのかというような顔をするんじゃないよ
もう僕は死ぬんだろう」
と身体中黄疸になり、目の前で吐血した患者さんは最期にそう言って、笑ったから。


一台来たと思ったらまた次々に救急車がやってくる。

看護師に向いているなんて、一度も思ったことはないけれど
だからこそいつだって目標は消えずにそこにあって、反省してはつぎにつぎにと前に進めるのだろう。


大丈夫、と優しく背中をおす声に支えられて
真っ白で真っ赤な喧騒のなかで、少しずつ自分の居場所を見つけ始めている。

赤ん坊

2014年11月、酷い寝不足で迎えた朝はやはり最悪だった。
都会をすこし離れたところにあるその駅のホームには、スーツを来た男性が数人と、着飾った綺麗な女性が何人か。
電車が近づいていることを知らせるアナウンスとともに、赤ちゃんを抱いた女性がホームに一人降りてくる。
女性はまだ、あー、うーと喃語しか話せないのであろう赤ん坊に、さむいねと小さく語りかけていた。

秋冬の朝というのは、日差しが夏のそれとは違い随分柔らかだとおもう。

着ている安物のセーターの、なかなかざっくりな編み目から入り込む冷気には思わず身震いしてしまったが、しょうがない、1000円くらいだったしと、どこかの国で作られた化学繊維を責めることは止めた。

黄色い線の内側に立てと聞きなれたアナウンスが入って、冬に向かう季節の冷たい風を纏い、電車がホームに滑り込んできた。
これに乗れば、あとは二つほど乗り換えて、ただ揺られるだけだ。


がたんごとんと揺れる電車、先ほどホームで一緒に突っ立っていたサラリーマンは、わたしの向かいに座っていた。
すこしくたびれたスーツを着ていて、靴の爪先は小さく剥げており、目線は斜め下で、なにかとても重大な宣告を受けるのを待っているみたいに、唇をきゅっと結んで、浅く息をしていた。
横におかれた革のビジネスバックが自棄にお洒落で、それがなんでか物悲しげに写った。


なにがあったのかと一瞬思って、
考えるのをすぐやめた。


きっと私だって、こんな麗らかな土曜の朝、仕事に向かうのであろうこのサラリーマンと、おなじ顔をしているのだ。



誰かに必要とされたいと、思って。


思えばずいぶん似合わないことに、無理をして、手を出していた。
結果待ち受けていたのは、好きでもないものを好きといい、嫌いなものを嫌いとも言えない。そんな虚しい時間だけで。


数歩離れたところに立つ、赤ん坊を抱いた女性の後ろ姿。
あたたかな両腕に抱かれて、やさしくあやされて、赤ん坊はすやすやと寝息を立てていた。

一瞬、もう赤ん坊になりたいとさえ思った自分が、酷く恥ずかしくて、何だかとても残念だ。と思った。
残念だ、がっかりだ。
そんな言葉が、ぴったり。


不意に電車がぐらっと揺れて、力なくぼうっと立っていた為に体が揺れに持っていかれた。慌ててつり革をぎゅっと握り直す。
向かいに座るサラリーマンは、一瞬急に近づいてきた私にびくりとして、そしてまた唇をきゅっと結んだ。
がたんごとんと、電車がリズムを取り戻す。
乗客はみな、涼しい顔でそれに揺られていた。
そのとき、先程まで眠っていた赤ん坊が急に泣き出した。

おぎゃあ、おぎゃあ、おぎゃあ。


細く、絞り出すような声で赤ん坊は泣いた。抱く母は申し訳なさそうに周囲を見渡し、赤ん坊の背中をとんとんと優しくたたき、あやす。

大丈夫、大丈夫。

啼泣のあいまに聞こえる優しげなその声が、やけに耳に残る。

けれどそれと重なって、小さな貧乏ゆすりが聞こえてきた。あのサラリーマンだ。
見るとまたさらに唇をぎゅっと結んで、ぎろりと赤ん坊を睨んでいた。膝の上に組んだ手が、貧乏ゆすりにあわせて上下している。


なにかに追われているようで、追っているような。
切迫した表情で、泣き止まない赤ん坊をその目に捉えていた。


がたんごとんと、電車は揺れる。
目的の駅まであと10分だとアナウンスが流れる。



サラリーマンのきゅっと結ばれていた口が、ゆっくりと、わなわなと開かれていくのが見えて
背筋がひやりと冷える。



電車がまた、がたんと大きく揺れた。


このなかでたったひとりの、自分を無条件に愛してくれるひとの腕に抱かれて、赤ん坊は泣く。

目の前に現れた幸せのかたち、
本能のまま泣くということ
刺すような視線を受けているのに気づいて、母親の表情が強張ったのが見えた。








それでも

はじめはみな、小さな赤ん坊だったのだ。

煎餅が、すきだった。

ほんとうは、煎餅会社に就職したかった。


じいちゃんばあちゃんこで、小さいころから祖父母の家に通っていた私は、中学、高校になっても学校帰りには必ずと言っていいほど祖父母の家に寄っていた。いつもちゃぶだいの上にちょこんと鎮座する菓子箱を開けるのが楽しみで、なかでも自分の中でのヒット商品は煎餅だった。

沖縄で煎餅を作っているところといえば塩せんべい屋くらいかと思うのだが
私が好みであったのはそういう特産品ではなく、新潟の会社が作っているごくポピュラーなものたちだ。

ぱりっと空気を裂くような軽快な食感がとにかく好きだった。
だしが強かったり、醤油の甘さや辛さが商品によって全く違っていたり、はたまた殆ど味付けは塩だけらしいというのに香ばしさがそれぞれ全く異なっていたり。

理想としては本土の手焼きの煎餅屋さんで働いてみたかったが、自分は職人側ではなく煎餅の美味しさを伝える側のほうが向いているであろうと思い、できれば売り込むほうを経験してみたかった。

そうなるとまずスタートは大手で営業やら広報部門やらに入ることを目指したほうが良いかと考え、希望は新潟の大手二社に絞り、高卒よりは大卒のほうが就職に有利かと高校は普通校を選んだ。


高校二年の秋まで俄然その気で、担任に、内申点を上げることを考えある程度得意で好きな科目を選んだほうが良いと薦められ、思い切り文系の科目選択をした。
煎餅会社に就職したいと思っていることは、高校三年に上がったときに両親に話そうと思っていた。

だから、まさかこのときは突然やってきたリーマンショックで家の経済ががた落ちし、大学進学を諦めてほしいと話されることになるなど、想像もしていなかった。

最初両親からその話をされたときは、既に家のなかに暗雲が立ち込めはじめていた頃でもあり、なんとなく嫌な予感はしていた。

頭のなかでは、大学に行って、大手の煎餅会社に就職、キャリアを積んだらより手作りに拘る所に入り、最終的には米農家の嫁になる。
という未来予想図がぐるぐると駆け巡って、けれどそのどれも明瞭な絵を描けず、くしゃくしゃに歪んでいった。


母は非常に申し訳なさそうに、いまのうちの経済状況では就職するか資格を取りに専門学校に行くか、それしかないと言った。
それもその資格というのが看護師しか無理だと言われて、私は凍りついた。


わたしは中学のころ年に二回入院したことがあったのだが、そのとき関わった看護師が非常に冷酷で担当に当たられた日はいつもびくびくとしていた記憶があり、看護師そのものがトラウマだった。
だから絶対に自分は看護師にだけはならないと心に決めていて、勿論良い人もいたのだがその一人の看護師のイメージが強烈すぎてかなりの不信感を抱いていた。

けれども、小さな島しか知らぬ高卒の女子がそのまま社会にでて、上手くやっていける自信など微塵もなく。
そこで挫折して親に頼るなどあってならない、絶対にそれは避けたい。そう思えば国家資格を得るほうが格段に、家計を支え、生きていくには確実な方法であると思った。

やはり絶対になりたくない職業ではあったが、
朝も夜も働く母が、空いた時間を見つけて看護師以外の資格についてもせっせと調べていた姿をときどき目にしていたし、
これがそれを経ての結論だと思えば頭ごなしに嫌だとは言えなかった。



こうして、私は渋々ながらも看護師になることを決めた。



勿論全く目指していた道ではなかったし、なんなら何があってもなりたくないと思っていた。
専門学校の入試は、最初は推薦で受けたのだがまだ反発意識がありやる気が無く、案の定面接から酷い有り様で当然のごとく落ちた。
それからやけになってプチ家出をするなどの僅かな反抗をし、母には泣かれてしまい、反省して今度は一般試験を受けることにした。

沖縄は地元就職意識が強く、なかでも看護の道を目指す人は多い。且つ滑り止めで何校も受けたりするので専門学校の倍率は異様に高い。私が受けたところは県内でも合格率が高く、なにより学費が安かった為特に人気だった。

思い切り文系科目を選択していたので、数学なんて久方ぶりだった私は死ぬほど勉強した。推薦に落ち一般試験を受けると決めてから、入試まで残された日数は一ヶ月であり、もともと頭が良くなかったのでこのときばかりは親にたのみ塾に通った。
最後の方は、講師の先生の好意で自分の勉強のあいまに小学生を教えるかわりに月謝を半分ほどに減らしてもらった。あとから聞いた話だと殆ど貰っていなかったらしい。


人生でこんなにも真剣に勉強にとりくんだのは初めてで、わからなかったことがわかっていく過程は、わくわくして楽しかった。気づけば勉強をすることに夢中になっていた。

あっという間に、けれど濃密に過ぎていった一ヶ月、迎えた入試当日。出来はどうだかはっきりしなかったがやるだけのことはやれた。
合格の通知を受けたときの嬉しさはいまも覚えている。

それから色々ありながらもなんとか専門学校を卒業し国家資格をとり看護師になり、もう新人といっていい年も過ぎてしまった。


やっぱり自分に命が関わる仕事なんて無理だとたまに落ち込んだりしながらも、仕事は楽しい。
体のメカニズムを学ぶことは、患者だけでなく、自分、そして自分の周囲の人々の健康を支えることにも繋がる。
車椅子を利用している人が町中で困っている様子であったら、躊躇わず声をかけることが出来る。事故や災害時等にも、知識を活かせる場面があるはずだ。


いまでも、絶対になりたくないと思っていた職業になり、それに遣り甲斐を感じている日々が不思議でならない。


煎餅会社に就職していたら、わたしはどんな人生を歩んでいただろう。
今頃、田園に囲まれた土地で米農家の嫁として奮闘していたかもしれない。それもそれで面白いが。

予想外の道に飛び込んだ私は、予想外の出来事に多数直面し、迷いながらも今の居場所にたどり着いた。
イレギュラーな選択は、葛藤とともに私にかけがえのない体験をくれた。辛い経験も含めそれは贈り物にすら思えて、あのリーマンショックにすら感謝を覚えている。
生活も苦しいなか、資格を取るため専門学校に通うという選択肢をくれた両親には、頭があがらない。
初めてのボーナスを全額あげたとき、とても喜んでくれ、嬉しかった。今後も少しずつ恩を返していけたらと思う。



日々、様々な患者さんに向き合うなかで一番大切にしていることがある。それは「常に患者の目線を忘れないこと」である。

日常とはかけ離れた場所で、たったひとりで病気に対しての不安を抱え過ごすことが、どれだけ苦しいか。私は自分の経験からその感覚を思い起こす。
多くの患者はおそらく、病気と診断されたときに心にある種の傷を負うものだと思う。だからこそ、そこで関わる人間の言葉、行動の影響力は相当なものであろう。

丁寧な対応を心がける。シンプルなことだけれども、きっと入院していた側だったからこそもてる視点、できることがあるはずだと考えている。




この数年を振り返り、未来を想像し
ときには思いもよらぬ選択肢を選んでみても良いのかもしれないと。

ぷち家出やら、煎餅への熱い思いやら、記憶をたどるたびに少々照れ臭いが

聴診器を首にかけ働くいまを、悪くないと、おもっている。

書くこと

最近は若くして亡くなるひとを目にすることが多い。

勿論年齢問わず色々なひとの、最期或いはその間近であるときを同じ空間で過ごすことは多いのだけれど。どうしてだか冬は、まだ昨日まで仕事をしてましたとか、最近結婚したばかりだとかいう、生活のエネルギーみたいなものがなみなみとあった若い世代の最期を看ることが多かった。


原因の多くはとんでもない不摂生だ。
だがそもそもその不摂生の原因は、心の繊細さであったり、社会からの孤独であったり、朝も夜もわからず働かねばならない生活であったりという。
さまざまな事情があったりする。

でも一握り、何故なのか理由もわからず命を失うひともいる。

残された家族のことを思うと、やはり耐え難い苦しみだろう。夫を亡くしたというわたしほどの歳の女性に、なんと声をかけてよいのか分からなかった。
女性は生後数ヵ月の子供を抱いて、夫の死を受け入れなければならなかったのだ。

否、もうなにも言葉をかけてはいけなかったのかもしれない。
心臓が止まるのを、体温が失われるのを前に、言葉などなんの力も持たないだろう。






昨年は、プライベートでも仕事でも、尊敬できるひとに沢山出会い、仕事は忙しくも周囲のあたたかさに支えられて、少しずつ自分の立場も変わり始めている。家に帰ればいつも穏やかに笑って迎えてくれるパートナーがおり、毎日が驚く程に充実している。
20数年生きてきたなかで、一番よい年だったと思う。それはもちろん、今現在進行形で。もっと長く生きているひとからしたら、そんなものと思われるかもしれないけれど。



温い毎日のなかにいて、私はふと思ってしまう。
この夢みたいに穏やかな時間は突然に終わりを告げて、自分もまた、なんの前触れもなく命を失うときがあるかもしれない。

ひとはいつか死んでしまうのだし、いまからてんやわんやしてもどうすることも出来ぬだろうと誰かが言っていた。
確かにもうどうすることも出来ないという場面は生きていたって多々あるわけだから、死ぬ間際だってそうだろう。

でも折角、奇跡的な確率で生まれてきたわけだし、ちゃんと学校にもいかせてもらえて、ある程度の漢字やひらがななんかが書けて、文章をかく時間も媒体もあるわけだから。これは生かしたほうがいいかなと思うのだ。

確実にいつかは死んでしまうなら
なにか少しでも生きていた証を残したい。悪あがきみたいなものでも。


別れた恋人が家に来てどうとか、すこし自分の私生活をさらけ出した内容を書いたのは
まぁこんなこともあったよなという、ささやかな人生の記録になったら良いなと思ったからだ。
そして誰かがこれを読んだときに、こんな変な人もいたんだなって思ってくれればうれしい。

もしかしたらストーカーに悩んでいたり、変な人とばかり付き合ってしまうという人が少しでも希望を持つかもしれないし。
勿論へたくそな文章を読んじゃって時間の無駄だとか、下らないのろけ話だとかいろいろ反感を持たれることもあるだろうけど。


いろいろ感じかたがあって当然だと思う。



近い未来かどこかで、また苦しい日々が待っているだろう。もしかしたら全部嘘かもしれない。
それでも、以前こんなことがあって
いまがこんなに幸せだということを


いまの私で、書き記しておきたい。

信じるもの

「オネーサン、カミサマヲ、シンジマスカ?」


それは先月はじめのこと。バス停で、あと20分後に来るという市内線を待っていると、ヘルメットを被り自転車をきこきこ漕いでくる女性外国人二人に声をかけられた。

地元でもこの出で立ちの外国のかたというのは目にしていたので、ああこれがあの。ついに自分も声をかけられたなぁというようなおももちで。
わたしは気持ち一歩ひいて目の前の出来事を見つめていた。

「ワタシタチハ○○トイウトコカラキマシタ、カミサマハスバラシイ。ソノコトヲオツタエシニキマシタ」

金髪に、ブルーの瞳が美しい女性だった。
背に担いだリュックから、沢山書き込みされたノートを取り出し、私とノートを交互に見ながらたどたどしく日本語を話す。

夜7時の道路沿い。彼女たちの肩越しから向かってきては横を通りすぎていく何台もの車の眩しいライトが
その鋭い光を小さな肩に掠めていった。

夕刻から雲行きの怪しげだった空から、ぱらぱらと小雨が降り注いでくる。
ペコちゃんキャンディみたいな、丸と棒だけの心もとない標識の、屋根もない錆び付いたバス停。雨と共に錆の臭いがふわりと香った気がした。


私のとなりにはもう一人、同じようにバスを待っているおじさんが立っていた。
おじさんはわたしを見て、いかにも不憫そうな顔をしてそっと目を逸らして、空を仰いだ。

わたしはというと、なんともどうしていいのか、笑っているのか苦笑いなのか曖昧な表情で彼女らを見つめるしかなかった。

「オネーサンハ、カミサマヲ、シンジテイマスカ?」
と聞かれて、私が一番先に思い浮かんだのは地元で接客業をする母のことだった。

やたらに口のうまい母はどの店に働きに出ても売り上げが良かった。
宗教の勧誘なんて「あんたたち神様に払う金が有るならこっちにくれないかね、がはは」などと口にしそうなくらいだ。
そんな母をみて育った私は、見えないものより見えるものを信じるようになった。

だから自分が何を信じているかって、
それは自分自身に他ならないだろうと、すんなり自分の答えは用意できたのだ。

けれども。

リュックから綺麗に折られたパンフレットを取りだし、沖縄ではここに教会があって、いついつ集まる日取りなので、お姉さんも是非と。
馴れない日本語で必死に説明する彼女たちに、わたしはそれを口にできなかった。


神様など信じないと、言えなかった。


それでもさすがにそちらには入れないのでということは伝えて、はっきりと断りを入れ。
心の奥に残る罪悪感のために、お話しか聞けなくて申し訳ないと謝罪した。


しゅんとしょげた顔をした彼女たちだったが、それでもありがとう、と丁寧に頭を下げて、雨の降りしきる夜道を自転車で走り去っていった。

彼女たちが見えなくなったあたりで、隣に立っていたおじさんが「ちゃんとお話を聞いて偉いですね、僕なら無視しますよ」と言って、苦笑した。




…何が偉いのだろう、と思った。



「カミサマハ、イツデモ
ワタシタチヲ、タスケテクレル」

彼女たちは、そう言っていたのに。


知らない土地の、暗い夜道を
言葉も十分とは言えないのに、若い女性が二人だけで

降りしきる雨のなか、傘も指さずに
神様を信じてみないかと声をかけて回って。


これが彼女たちの信じる神様が命じたことなのかと、私は思った。


時には罵倒されたりもするだろう、あんな綺麗な出で立ちの女性たちなのだからきっと、おかしな人間が変な気を起こすかもしれない。

視線さえ合わせて貰えずに終わることも、多々あるだろう。


目を合わせて、話を聞いただけの自分の行動も、それはそれで彼女たちの限られた時間を無駄にさせたようなもので、ひどく罪悪感を感じるものだし

偉いといわれても、なにがどう偉いのかと
私はさっぱり分からなかった。


ただひとつわかったことは、
おじさんが言ったように、こうした場面では、無視することも自分のテリトリーへの侵入を防ぐにはやむを得ない手段だということ。
それが当たり前のように認識されているということだ。



雨は次第に足を早めて、景色は力強く降り注ぐ無数の雨粒であっという間に灰白色になった。
雨粒を弾いて走り去るいくつもの車、景色を貫くように走るライト。
定刻の時間を過ぎてやってきたバスに、私は乗り込んだ。








もしも、私が神様なら。



雨の日には雨宿りして休みなさい、というだろう。

女性だけでは危ない、と注意するだろう。

そして、ときには



いかなる力を使っても、抗えないものもあるのだと、話すだろう。




バスのなかは温かく、雨で冷えた指先はじんわりと温もりを取り戻してきた。


彼女たちはいま、どこにいるだろう。



いくつもの細やかな雨粒が絡まった金髪の髪は
街灯と車のライトの多方向より光を纏って、それは綺麗だったなと
まぶたの裏に残像が浮かんだ。



どうか彼女たちの信じる神様から
すこしでもご加護がありますように、と





神様など信じないと、心に決めたのに




私はきづけば、その見えないものへと、願いをかけていた。

かたち

12月なかばの東京は、一昨年の同じ時期と比べてとても暖かかった。
目的地へと向かうまで、準備していた上着は片手に持ったまま、電車に揺られて窓の外をぼんやりと眺める。昨日の曇天とは違い、東から薄く光を抱いてつんと冷えた青色の空。ビルのてっぺんと空との境い目に、視線が吸い込まれた。


がたんごとんと青色の電車に揺られながら一昨年はこんなことがあった、あんな風景があったなどと思い出す。

つんとした冬の空の青さは、記憶と重ねてみてもやはり同じような色だというのに。
なぜかどうして、温かに目に写った。


緩やかな曲線を描いて電車は進む。やがて日は暮れ、無数の光を纏う町に埋もれるように一旦沈んで、幾つかの路線を経たのち心地よい振動とともに目的地へとたどり着いた。

今回の東京行きは、パートナーの家族への挨拶というのが目的で。いままでとは違い緊張感がある、弾丸の一泊二日。
オレンジ色の街灯に迎えられた一軒家、表札を見てついに来てしまったと余計に緊張感が生まれた。
迎えられる立場というのは久しぶりで、夕御飯の席では緊張を解すためにと最近めっきり飲めなくなったお酒を無理に飲み。
今度はお酒を飲んだせいで失態をしないようにと、酔いながらも必死に理性を保とうとする数時間を迎えることとなってしまった。

結果、言えることはやはり、お酒はほどほどにしたほうがよいということである。

パートナーの家族は、きっとこんな家族なのではないかと描いていたそのままであった。その夜用意して頂いたお鍋の、ぐつぐつとした音や湯気、みんなで同じご飯を囲むという、映画かドラマかでみたワンシーンがやたらに似合っていて、ああこういう家庭があるのだなと、羨ましくなった。

家を出るとき、また来てねと言われて
それがとても嬉しく、そして、なにをどうすればいいのか明確には見いだせないけれど、頑張ろうと思った。

慣れない幸せの形を前に、私は最初、すこし怖じ気づいた。
だが恐らくこの形はきっとすぐにできた物ではなくて、各々の思いが激しくぶつかり、ときにゆっくりと折り重なって、日々の小さな努力を経て存在しているのであろうことを
彼から聞いた数々のエピソードと一つ一つの瞬間から感じた。

そして見慣れぬ風景を羨ましいと思った瞬間に、諦めたと言い聞かせながら、やはりどこかしらで自分の家族もこうでありたかったと、夢に描いていたのだとはたとした。
すこし遅くなったけれど、諦めない、という選択肢を選んでも良いだろうかと。
まだ距離感がつかめずにいる家族のことを、思った。

そのためにどう一歩踏み出すか。これは暫くの私の宿題だろう。


帰りは駅構内でほんのすこし人助けをする場面があって
それをすんなりとやってのけたパートナーに、
またひとつ尊敬の気持ちが生まれた。

何度も何度も、ありがとうと頭を下げるおばあさんの背を彼は優しくさすり、誰も互いに目を合わせぬ雑踏のなかで、そこだけ特異な空間に見えた。

それは胸の奥が優しくきゅっとつかまれるような瞬間と、じんわりと温かに過ぎ行く数十分とが生まれた偶然の出会いだった。


期間中は、久しぶりの再会もあった。
よく、地元のボランティアに一緒に参加していた学生時代の友人から、会いたいと嬉しい連絡があったのだ。

近頃、華やかなパーティーでの写真をよくSNSにアップしていて、どのように変わっているのか気になっていたのだが。

会って早々「お金を沢山稼いで成功する」「友人が貧乏なんて嫌だ、私はそんななかに入りたくない」と現在取り組んでいるらしいビジネスと、描く将来について話をされた。

心優しくエネルギーに溢れていた友人は、学生時代と変わらぬものと、変わってしまったものがあるように思えた。

それは東京という街がそうさせたのか、元々あった彼女本来のものに私が気づいていなかっただけか、どちらかは定かではないが。

彼女が、より質の良い品物や、化学と医療を最大限に生かして得る長寿や、輝かしい世界について目を輝かせて話すなか、どこか私の心は一歩引いたところにあった。

「幸せになりたい」
そう強く言葉にされて、ふっと思い浮かんだのは

このお鍋美味しいねと誰かと同じ食卓を囲んで笑ったり、寒い日に手を繋いで暖めあったり、自分のほんのすこしの時間を見知らぬ誰かの目的のために共有したり。

そういう、彼女に言わせてみれば全く一銭にもならないようなものなのだったのだ。

貧乏なんて嫌じゃないかと問われたとき
それはなにを貧しいとするかによるんじゃないかな、と溢した私を、友人はきょとんと見つめた。

すんなりきっぱりと自分の答えが出た自分自身に、私すらもやや驚いた。

いろいろな、幸せがある。

恋に悩んだ一昨年、家族と喧嘩ばかりしていた思春期、私はなにを幸せと呼んでいただろう。
なにを貧しさだと思っていただろう。

記憶が、痛みではなく、胸に優しくノックをするように訴えかける。


東京の、これでもかと輝く街を、ごったがえす人並みに揉まれながら歩いて、星なんてひとつも見えないような空を仰いで、わたしはやっぱり自然が恋しくて、ひとの温もりがほしくなった。

目に見えず、触れず、約束などされない
そんな不確かな、けれど何にも代えられない温もりの一瞬を

どうしてなのか、と聞かれればたぶん
自分だってよくわからない。
だけれどそれをただの憧れでは終わりたくないたしかな強さで

私はいつも、描いているのだ。



東京。


やはりここはいつも、自分にとって確かな何かをくれる所だ。


帰りの飛行機が飛び立つのを待つ今
きらびやかなネオンに、すこしの怖さと、感謝を抱いている。