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ありをりはべり

日常のひきこもごも

二十歳の頃

 二十代の今、二十歳の頃はこうだったと語るには、まだ早いような気もするが、ひとつの日記としてこれを残しておこうと思う。

二十歳の頃、私は学生で、一人暮らしで、学校の友達が信じられなくなっていた。大好きな祖母も亡くなりさらに塞ぎこんで、学校のカウンセラーにもいろいろと話をしてみたが、マニュアル通りの答えが返ってくるばかりでただ心に陰りが増すばかりだった。カリキュラムに心理学が組み込まれていなければ、もっと素直に受け取れたのかと思ったけれど、そこが問題でないことは、薄々気づいていた。

思えば不登校に進む一歩手前で、ついでに人間不信にもなりそうな、暗くて乾いた日々を送っていた。

あの頃の自分に今、なにかを伝えられるとするなら、もっと自分を信じていい、というだろう。

 

二十歳の頃、私は人を信じられない以前に、自分を信じることにすら迷っていた。

だが真っ暗闇の数歩手前で、これまで自分が大切にしてきたものをぎゅっと握っていた。

暗闇に引きずり込もうとする手はいつも傍にあったけれど、その手を取らずに居られたのは、かたくなに守ってきたものがあったからだ。

暗い闇の中にいると、だんだんと闇も怖くなってきて、むしろ闇の中が居心地よくなってきたりするもので。人の順応性は恐ろしいものだ。

けれど私は朝が好きだった。日の光が照って、めまぐるしく新しいものが生まれる、そして何より、人が好きで、人の笑った顔が好きだった。

友達が信じられなくて、人が怖いとさえ思いながらも手放せなかったのは、人が好きという気持ちだった。

何事も貫くには勇気がいる。あれから五年が経ったいま、その勇気を忘れなくて、戦って、生きることに絶望しなくて良かったと心から思う。大人になった先に夢など抱いていなかったけれど、大人はずっと大変で、そして楽しいものだったから。

何かを貫こうとする先には、たいていの場合壁が立ちはだかる。少々のことは笑い飛ばして、歩いていければ良い。迷ったときには来た道を戻って、また考えてもいいだろう。

みんないくつかの傷を持っていて、認めてもらいたい。それは大人でも子供でも一緒で、そう、子供の気持ちを忘れない大人になる、というのが私の理想なのだ。

 

二十歳の私は、私が思うより孤独ではなかったし、強くはないが、弱くもなかった。

大丈夫だと、言い聞かせたい。できることなら、情けない泣きっ面の前で、これから出会うたくさんの人の笑顔を、見せてあげたられたらいいのにと、思っている。

水嶋さんのはなし

「水嶋さん、元気かな」

先日、職場の手洗い場を使っている最中そんなことを思った。銀色の蛇口から出た冷たい水が、指の間を流れいく。

シャワーや蛇口から流れる水、排水溝に流れる水、トイレの便器でぐるぐると渦を巻いて流れる水。

 

 

水を見ると思い出す「水嶋さん」

それは、小さいころ実家に居た不思議なおばけのことである。

 

 

水嶋さんとの出会いは、小学校6年生の夏。

我が家は二階建てなのだが、そのときほかの家族は牛舎に出ており(実家は畜産業である)、1階に私、2階に母がいた。1階のソファで寝そべって漫画を読んでいると、トイレから水を流す音が聞こえた。誰か帰ってきたのかと思ったが、しばらくたっても足音なども聞こえない。2階にいる母が知らぬまに降りてきたのかと思い、おかあさーん、と試しに呼んでみる。すると2階から母の返事が聞こえたので、いよいよ不審に思ってトイレを見てみれば、誰もいない。ぎょっとしてその場に立ち尽くしていると、今度は背後にある洗面所から水の音。蛇口から水がちょろちょろと流れていた。

背筋がひんやりと冷えるのを感じて、2階にいる母のもとへ全速力で向かい、ことの経緯を報告した。母はあっけらかんという感じで「まぁ、うちお墓も近いから、そういうこともあるよねぇ」と言ってのけた。

この話はその日の夕飯の席でも上がり、家族会議で「どうせなら名前でもつけよう」ということになった。

「水の出来事からはじまったから、水嶋さんじゃない?」

数分の協議の末、けらけらと笑ってそう言った母の案が可決された。

 

水嶋さんは、それからも不定期に我が家にやってきた。否、いつもいたのかもしれないが、なにかしらの行動を起こすのはいつも前触れなく突然だった。

ある日は、玄関やテーブルの上に木の実や落ち葉がこんもり小さく盛られていたり、テレビを見ていると砂嵐になったりした。

不思議なことに水に関することはその後一切おきず、私が14歳になるころには小さないたずらの数々もぱったりと止んだ。

 

水嶋さんがいなくなったころはちょうど思春期だったので、「なんだかわからないけどお父さんが嫌」という中2女子共通の問題が発生していた。そうなると水嶋さんの正体は父か。つっけんどんな私の態度に、水嶋さんを名乗るいたずらをするのも気が引けてしまったのだろうかなどと考えたが、水が勝手に流れたり、テレビが砂嵐になる現象の説明はつかない。

結局私の頭ではこれ以上仮説も立てられないので、深く追及することはやめた。

 

あれから十年たったいまでも、ときどき、水嶋さんのことを思い出す。

 

出会ったとき、私は人里離れたところに住む、友達の少ない寂しい小学生だった。姿かたちの見えない水嶋さんを、ひそかに家族の一員が増えたような、新しい友達ができたような、ちょっとうきうきした思いで意識していたのだ。

 

もうどこで何をしているのかわからない、やっぱり本当は、半分くらいは父の仕業だったかもしれないけど。

 

水嶋さんはいまでも、お茶目で、愛らしい。

おばけであり、家族であり、モノ申さぬ友人であった。

 

「水嶋さん、元気かな」

どこかで元気にやっていてくれたら、それはそれで幸せだと思っている。

性分、

人と話すことが苦手だ。緊張してやたらにどもるし、説明を求められる場面では正直逃げたくなるときもある。

好きと得意は必ずしも関連しないというのはきっとこういうことで、人と話すこと自体は好きだ。

調子が良いとちょっとその辺で出会ったひとなどにも話しかけてしまうし、あんまり人見知りしないでしょうなどとも言われる。

ついでに論文等を発表する場においても、ほんとうは緊張で頭真っ白なのだが、何かが覚醒するのか質疑応答までスムーズだったりする。それは他人から聞いた話で、当の私は記憶があいまいなのでよく分からない。ただのお世辞という可能性もいささか否定できないので、あまり考えないようにしている。

 

人と向き合って話すことが怖いので、反射的に本心の上に幾重にも言葉のベールをかけて、しまいには本当に言いたいことさえ迷子になってしまう。語彙力がつたないので尚のことそうなる。

幼少期から思春期にかけて色々こじらせた結果、めんどくさい性分になってしまった。それでも、私が本心を隠そうと無理くり引っ張ってきた言葉のベールを、同じように無理やりにも取っ払ってくれた幾人かの友人、または見知らぬ人々のおかげで、少しはましになったのかと思う。

 

あなたが何を言いたいのかわからないと言われたとき、私だってこの気持ちをどう伝えたらよいのかわからないのだと、泣いてしまった時がある。

否、本当は伝え方を見つけていても、怖くて言えなかったかもしれないけれど。

 

怖さを持つことで、周囲の人間関係のしくみを知ってきたけれど。

怖さだけで向き合ってはいけないということも、わかってはいるのだけれど。

足かせに救われている感覚が生々しくて、まだ手放せないでいる。

 

 

 

 

ごらん新世界のようさ

 


所沢高校文化祭2012 キリンジ-エイリアンズ 弾き語り

 

すぐ忘れてしまうので記録として。

ひさびさにyoutubeを徘徊していたら、凄い17歳(現在21歳)がいたことを知りました。

 

関連動画ででてきた、たなかりかさんのカバーも素晴らしい。

 


エイリアンズ / たなかりか

 

erinaさんのカバーは背景夕焼けイメージの、切なさいっぱいな印象だけれど。たなかりかさんは色っぽくてドラマチック。聴いてたら飲みに行きたくなってしまった…

 

 

 

 

拝啓、

 

 

3か月ほど前から、文通を始めている。

千葉、宮崎、東京に住む3人の女性と週1回から月1回。それぞれでだいぶ開きはあるものの、お互いの時間の合間でやりとりをしている。

 

文通をやろうと思いたったのは、ある日、棚整理の際に使っていないレターセットがいくつかあるのを発見したからだ。

久しぶりに手紙を書いてみようかと思ったが、送る相手と言えばいとこのお姉さんか両親くらいで。しかも現在はそう定期的にやっているわけでも無いので、こんにちはお久しぶりと突然手紙を送ることは、なんだか気が引けた。

なんなら文通してみるかと。おそらく思い立ったら行動にうつのは早いほうで、棚の整理をしつつ文通相手を募集するサイトに登録し、それから3時間で現在の3人の方と文通をすることになり、その日で3通の手紙を書いた。

 

文通は小学生以来のことで、全く面識のない相手へ手紙を書くという久方ぶりの行為に、だいぶ緊張した。字が汚いのがコンプレックスなのだが、初回はそれに手の震えまで加わり何枚か没にした。おまけに誤字脱字も多いので、これを人に渡すのかというレベルの仕上がりで自分には相当がっかりしてしまった。

好きな字体を選べて、かつ書いてはすぐ消せるパソコンは便利だ、とあらためて思う。けれど、チラシや公共料金のおしらせしか届かなかったポストに、ある日可愛らしい封筒が入っているのを見つけたときには、何とも言えない、すこしこそばいような嬉しさがやってくるので。いろいろ格闘しつつも虜になるのは早かった。

 

文通は某アプリのように、自分のメッセージが相手に届いたということが即座にはわからない。相手からの返事をもってしか、確実に届いたのかを知れない。

それは久しぶりに訪れた感覚で、そこに少々の不安を覚える自分に気付いたとき、いままで随分手元の小さな機械を中心とした生活を送っていたのだと思った。

そして他人から言葉を受け取ることをさも当たり前のように享受してきたけれども、伝えられない、またこちらにも届かないという万が一が存在することを思えば、さまざまな人の手を渡り、海をも超えてきた言葉の重みというものを感じずにはいられない。

ポストを開けた時の喜びは、旅を無事終えて届けられた、そしてあたたかな筆跡の向こうに、見知らぬ、けれどたしかに自分と繋がる誰かがいるという出会いの尊さにあるのだと思う。

 

 

汚い字をさらして、へたくそな文章で、ときどき誤字脱字を見つけてはへこみ、直しを加えながら、私はまた一通手紙を書く。

ばれまいと息を殺していたコンプレックスは、ペンと紙を前にすればすんなり隠れ蓑を引っぺがされてしまって、恥ずかしいことこの上ない。けれどいつかこのいびつな文字や、緊張しているわりに変に力の抜けた独特の筆圧だって、私にしかないものなんだと思える日が来るのかもしれない。

いつか、時間はかかるかもしれないけれど、自分だけにあてられた言葉が存在するしあわせを知ったように、自分の記す言葉も、大切にしていけたらと思う。

 

 

 


17歳女の zazen boys - KIMOCHI 弾き語り

 


17歳女の 東京事変-今夜はから騒ぎ 弾き語り

 

式日

「女の子は、綺麗でいないとね」
普段口下手な祖母が繰り返し口にしたのは、女性にとって、身だしなみを整えることがいかに重要であるかということだった。

当時私は中学生で、友達に教えてもらいやっと眉毛のそり方を覚え始めたとろ。

祖母は私の残念な眉毛をみやっては、まるで捨て猫でもみるような目付きで、ほら座りなさい、やってあげるから。と鏡の前に座らせて、非常に遺憾そうな顔つきながらも私専属の美容部員へ変身してくれた。

そりそりそり。と昔ながらの、やたらと切れ味が良さそうな剃刀を、適度な力加減で優しく扱う。 ぼうぼうのまゆげに注がれる視線は真剣で、それは授業参観日に慣れない化粧を頑張っていた母の目つきによく似ていた。それまで祖母を母と似ていると思ったことはなかったけれど、指先の間から見えるその眼差しに、ああやはり親子なのだと、やけに感動したのを覚えている。
部活帰りに祖母の家に立ち寄ったその日、季節は夏で、網戸の向こうで蝉がけたたましく鳴いていて、まさしくうだるような暑さだった。
エアコンがない祖母の家は、今にも羽が取れてしまいそうな扇風機と、小さくあけた玄関のドアから吹く心もとない風だけで室内の空気を循環させていた。
それなのにいつもきれいにお化粧をしていた祖母は、まったく崩れさせることなくそれを保っていて。最早同じ女なのにそうでないような、ある意味魔女なのかというような気持ちで齢70の祖母を見ていた。

今朝、鏡の前にたったとき、なぜだかふとあの夏の情景が浮かんで、少し可笑しくなった。中学生のときの私もいまの私も、やっぱり眉毛を整えるのが苦手で、もう書くのも面倒だからとほぼはやしっぱなしである。
こんな状態をみたら、祖母はなんていうだろう。ついでに、この秋お嫁にいくんだよと、伝えたら。
なんてことだって、びっくりして。また戸棚の奥から、やたら切れ味のよさそうな剃刀をとってきてくれるだろうか。

とても華奢なのに、波瀾万丈な人生を歩んできた故か力強さすらも感じたあの背中が、瞼の裏に過る。
大切なときには祖母が縫ったあの着物を着ると決めていたから。せめて秋までには、着物に恥じない女性にならなければと、すこしだけ心が引き締まる。

うだるような暑さと、洗面所にぽつんと置かれたピンクの眉毛用剃刀。

蝉のけたたましい鳴き声を聞きながら
もう、この世にはいない祖母と、懐かしいあの家を思い出している。

10年

そのアーティストを知ったのは中学生のときだった。

 

「どこにいるの

窓のそばにいるよ」

 

軽やかなギターの音色をバックに、男女のかけあいで歌われる一曲。恋の歌のようで、友情の歌のようで、どこか切なくもあたたかい。

思春期まっただなかで、自分が何者かもちゅうぶんらりんだった私のとって、その曲はくるしいときの支えでもあった。

のちのち歌い手の二人は夫婦となり、子供も生まれ、家族になった。学生のときも、就職してからも、息抜きにはやはりそのアーティストの曲をよく聞いていた。

地元にいるときからずっと、ライブを生で見たいと熱望していたけれど、先日やっと夢が叶い、彼らがコンサートをするという某劇場へと足を運んだ。

 

端的に、正直に言うと、とても悲しい結果になってしまった、と思う。

 

音源で聞く声と実際の声の透明度は格段に違い、声や音が、ときに空気をつんざくようにも感じられて

胸が冷え冷えとしてしまった。

大好きだったあの曲になったときには、更に沈んでしまった。

否、期待に心が熱くなっていたからこそ余計にそう感じられたのかもしれない。

 

帰りはもう頭の中も整理できず、だからとりあえずこの10年というものを振り返っていた。

私が中学生から20代なかばになるまでに、いろいろな変化があったように。きっと彼らにも彼らの変化があった。

 

 

それは久しぶりに会った同級生が、真逆の姿で目の前に現れたときと感覚が似ていて。音楽を聞いて悲しくなる、という経験は初めてで、やはりやりきれないけれども。

 

 

それでも私は彼らが好きだった。

それだけは嘘偽りなく、ほんとうのことだった。

 

もう生で会うことはないのだなぁ、と帰り道確信のように思ったのも、これが初めてのことだった。