ありをりはべり

日常のひきこもごも

大人になること

来月で28歳になる。

大人になるのは、もっと簡単なことだと思っていた。

 

自分で稼ぎ、それなりのもの食べて、それなりのところに身をおき、それなりの人たちに囲まれれば、夢見た大人になれる筈だと、ぬくぬくと温かい布団に入って信じていた。

あらゆる問題に対して、できるかぎり倫理から逸脱しない選択をし、実行し、対処法をアップデートしていく。大人というのはそういうものだと思っていた。

 

けれど2019年現在、アラサーの私と言えば、問題に直面すれば秒で泣き言が頭の中をかけめぐるし、いつだって自分の選択が不安で、気づけばYahoo知恵袋に答えを探している。

誰かに、私もそうだよって言ってもらいたくて、背中を押してもらいたくてしょうがない。

そしてだいたいの場合同意見が見つからずに、より負のループへ、ふかいふかい闇へ沈んでいく。

この猛烈な不安は、承認してもらいたいという欲求は、生活基盤が安定し独身時代に憧れていたものを手にするにつれて、より一層色濃くなってきている気がする。

 

ある程度経験年数をつめば仕事は楽になるはず。

結婚すれば社会的地位が保たれる。

子供を産めばその笑顔に癒されて辛いことも乗り越えられる。

極端なプラスイメージが、現実をより厳しく認識させる。

そんないいことだらけなわけないだろう、とあらゆるリスクを想定していたし頭ではわかっていた筈なのに、周囲の憧れのツールを手にした現実が幸福で満たされていないと、自分は逸脱した人間なのか?異常なのか?とちくりと不安になる。もっと、幸福の割合って大きかったはずじゃないの?と。

 

SNSをひらけば、見知らぬ者同志が批判に批判を重ねている。

アイドルが出産したと、赤ん坊の写真付きの、幸福なはずのニュースに一言コメントがつく。「全然可愛くないですね」

 

正直で残酷なのは大人も子供も同じ。

だけど大人のそれは醜いと思ってしまう。

 

歳を重ねれば重ねるほど、幸福の基準を他者の意見にあわせるようになってしまった。

子供のころの自分はどうだっただろうか?

アスファルトの上に散らばる、車に踏まれて粉々なった硝子片が綺麗で、小一時間眺めていられた。おなじ幼稚園に通っていた女の子の、太い眉毛と細い目が笑うと柔らかな曲線を描いて、それがとてもかわいくて、好きだった。

大人に言わせてみれば、硝子片などただの危険なもの、ゴミ。毛深さはコンプレックスと認識されて、思春期をすぎると脱毛をはじめる女の子も増えていったし、眉毛はマニュアル通りの曲線に整えられていった。一重より二重が美しい、と誰がいうでもなく無言で提示された。

 

おなじ親の元で生まれて、同じ生活空間で衣食住をともにした兄弟でさえ、感性はひとりひとり違う。

兄は辛いものがすきで、私は苦手だった。

 

本当の正解など、他人のなかになどあるはずがないのに。気づけば、焦点を大多数といわれる見知らぬ人々に合わせている。

彼らを大多数と呼んでいるのは誰なのか?大多数であればなんなのか?

考えてみれば滑稽だ。

 

他者に基準をあわせればあわせるほどに、幸福は輪郭をぼやけさせていった。

 

本当のわたしはどこだろうか?

 

もっと汚くて、醜くて、批判を受けて、それでもいいじゃないか。

 

大人という枠組みにあてられればあてられるほどに、拒絶反応のように不安が押し寄せる。

 

なりたくないな、なるべきじゃないな、大人になんて。

 

そうやってうんざりしながら、自分の思う大人の定義があまりに薄っぺらなことに気づいて、ますます、嫌にもなるのである。

 

 

 

かぼちゃ、産まれる

「初産でこのスピードは、スポーツ選手並ですよ!」
と、助産師に言わせると、私のお産は相当な安産だったらしい。

初産は、通常は陣痛開始から出産まで10時間以上かかるといわれているそうなのだが、私はその半分程度であった。
しかしその代償として、本来は段階的に強くなっていくはずの陣痛が、ジェットコースターのごとく急激に増幅するという地獄を見た。
前日からじんわり腰の重たさを感じ、陣痛かもしれないので念のために来院した3時間後、私は分娩室で悶絶することになったのだ。
陣痛の痛みは、例えるなら激しい下痢のときの腹痛×10000倍といったところか。
鶏肉であたり、血便が出るほど腹を下して苦しんだことがあったが、あんなもの可愛いものだった。
骨と肉をめりめりと押し上げながらかぼちゃが出てくる、そんな感じだ。
出す、ではなく出る、である。私の意志と関係なく、外へ外へと自分で出てこようとするのだ。すきまなど存在しない道を、強烈な力をもってして、想像以上の痛みを伴って突破しようとしてくる、それは恐怖ですらあった。
ここで助産師が「まだ子宮口が完全にあいてないので、待ってください!!」と出てこようとする赤ん坊の頭を押さえるので、そんな無茶なと泣きたくなった。

陣痛のあまりの痛みに歯をくいしばり、息を止めると、モニターに表示される赤ん坊の心拍がゆっくりと落ちていくのが見えた。危ない、と思うと同時に、「赤ちゃんが苦しいので、しっかり息をしてください」と声がかけられる。

息?息ってどうやって吸うんだっけと、半ばパニックになりながら、あー、とかうー、とかうめき声なのかよく分からない声を漏らすので精一杯だった。ヒッヒッフー等、到底無理である。

激しい陣痛の波が押し寄せ、思わず息を止めるたびに、赤ん坊の心拍は下降し、わずかに息を吐くと上昇を見せた。痛みを紛らわすために、ベットの柵に自分の頭を何度も打ちつけ、付き添う夫の胸もとを手で叩いた。夫はとうとう、私の気が狂ったかと思っただろう。

まだ見ぬ赤ん坊が、不憫でたまらなかった。

この子は、親の勝手な都合でこの世に誕生するのだ。まだ世界を見る前から、心拍が落ちるほどの苦しみを味合わせられて。
この子自身が産まれたくて産まれてくるわけではないのに。そして親すら選べないというのに。

その瞬間に、せめて自分だけは、この子を守らなければと思った。その感覚は愛情などといった綺麗なものではなく、最低限の義務として強く思った。

今思えばそれが、その後訪れる母性の芽生えに繋がったのかもしれない。


「はい!良いですよ!いきんでください!」と助産師が声をかけ、かぼちゃが道を突破し、産声をあげるまでの時間は本当にごく僅かで。

すごいな。
この子は、誰に教わるでもなく、この世界で息をする方法を一瞬で習得できるのか。とぼんやり思い、ただ、感動した。







それから生後1ヶ月までの期間はあまりに慌ただしく、記憶が曖昧である。

再会

約一年ぶりに、ブログを書いてみようとログインを試みるも、何度も無残に弾かれた。
IDもぎりぎり覚えているかどうかといった状態だったので、無理もないだろう。
無機質な白い画面に浮かぶ「もう一度やり直せ」とのメッセージに、発光する画面の向こうから「私のこと、忘れてた癖に」と責められているように感じた。

半ばあきらめ、この数ヶ月はブログを読む側に徹した。その中でとても美しい文書に出会い、さあコメントでも書いてみようかと、物は試しにログインボタンを押してみた。すると、拍子抜けするほどにあっさりと、いままでぴったりと閉ざされていたドアが開いた。

ひどい、と思った。

気まぐれな猫を飼ったら、きっとこんな気持ちだ。
否、猫はアレルギーなので飼えないのだけれども。

かくして私は、この扉を開ける鍵をまた手に入れることができた。
今度は、無くさないようにしなければ、、

いつそっぽを向くか分からない猫を前に、いや、まずは自分のだらしない性分に、ほんのわずかに、手に汗が滲んだ。

桃色にマーガレット

その薬を飲み始めたのは、3年程前からだ。

卵巣の機能が悪いために、周期ごとに出されるべきホルモン量が少なく、薬で補てんする必要があった。

不規則な生活が原因とも言われるが、本当のところはまだよくわかっていないらしい。

「これはいつか不妊症になるし、薬を飲みましょう」主治医のその言葉にも、最初はどこか他人事のようだった。

若いうちになにか対策をとるべきだと言われても、この時彼氏すら居らず、子供だって欲しいわけではなかった私は、なんだかちぐはぐな気持ちだった。だが治療しなければ、他の病気を併発する可能性もある。

それはそれで困るし、毎日薬をおおよそ決まった時間に飲むのはしんどそうだけれど、仕方ないと腹をくくったのだ。

しかし薬はどんな薬でもそうだが、必ず副作用がつきまとう。

案の定、不規則な仕事のために、服用時間が業務時間に被り数時間ずれてしまったことがあったし、旅行に行く際に持っていくのを忘れてヒヤッとしたこともあった。

飲みはじめは、副作用にも少々悩まされた。わたしは立ちくらみや嘔気等の軽いもので済んだが、服用している間は下肢に静脈血栓を作りやすくなるため、立ち仕事で浮腫が出来やすいことはイコール血流が滞ることを意味し、そのリスクをさらに増幅させるため危機感があった。

最近では、医療保険に加入する際の審査で、薬を飲んでいることが引っ掛かり、結局第一希望への加入を断念することになった。

 

この数年の間、ほんとうにほんとうにすこしだけだが、女性に生まれたことを後悔した。

 

 

薬を定期的に処方してもらうために、通っている産婦人科。一人のおじいちゃん先生と、数人の看護師さんという最低限のスタッフだ。先生は、名字が変わり結婚したと知ったとき、孫を見るような優しい笑顔で、おめでとうと言ってくれた。そして「子供はたくさん作りなさいよ。最低五人!」とわっはっはと快活に笑った。

子供が欲しいと思っていなかった私も、ぼんやりとだが、いつか先生に自分の子供を見て貰えるだろうか、と思うようになった。まだ言葉も覚えないころに、あの優しい笑顔に包まれたら。想像してみれば、それはとても幸せな画だったのだ。

 

だから、いつものように薬を処方して貰いに産婦人科を受診した際、閉院すると聞いたときは驚いた。

 

おじいちゃん先生は、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにさせて笑いながら、これまた切り干し大根みたいなしわしわの手で、今時見ない紙のカルテをぱらぱらめくりながら、言った。

もうねー、さぼろうと思うんだよね、と。インキョインキョ、と相変わらず快活に笑って。

初診時から現在までの記録を辿りながら、ひとつひとつ丁寧に、病状の経過を説明してくれる。

別の医師によれば不妊症一歩手前だった私はいま、子供がいつでも作れるからだになった。

 

「よく、頑張りました」

そのたった一言で、目頭が熱くなる自分がいて。あぁ私はなんだかんだと言い訳しながら、本当はきっと、この病と診断されてから、子供を産めない体になることが怖かったのだ。本当はずっと、子供が欲しかったのだと、思った。 

 

お世話になりました、とそれだけを言うのが精一杯だった。

 

会計を済ませ、受付にいる看護師さんから包装紙に包まれたら薬を受けとる。

 

いつもは寂しげな薄いブルーの包装紙なのに、この日は何故か桃色にマーガレット模様の、やけに春めいたものだった。

それが、どうしてかとても切なった。しかも数ヵ月ぶんをまとめて貰ったので、薬の重さをずっしりと感じて、何だか大きな土産物みたいでより切なさが増した。

 

数ヵ月後には、別の産婦人科医院に通うことになる。

もうおじいちゃん先生のいる産婦人科へ、足を運ぶことはない。

 

けれど、きっと私は暫くの間、あの包装紙を捨てきれないだろう。

 

桃色にマーガレット模様の、柔らかな色彩。

 

それはやはり、あのしわくちゃな笑顔のように

 

とても温かで、幸福な画だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふたつの世界

 

よく私なんかと結婚しようと思ったものだ。

メガネの奥の、これでもかと細められた目を前に、ときどき思う。

 

18歳から始めた一人暮らし。一人旅が好きで、一人ライブが好きで、一人ご飯が好きだった。

1Kのアパートは、私にとってはささやかな城みたいなもので、不器用なくせにDIYという魔法に騙されて、随分いろいろと変なものを作った。呆れるほど、楽しんだ。

 

転機が訪れたのはなかなか突然で。最初はかなり心配したものだったけれど、思ったよりも他人と時間を共有することは楽ちんで、難解だった。

「どんなに仲が良くたって、所詮他人同士」という概念は最早ポリシーみたいに思っていたのに、私は自分が思うよりずっと、欲深い人間だったみたいだ。

けれど何度すれ違って、ぶつかり、やっぱり一人のほうが楽だったなぁなんてぼやいたとしても。

 

外を歩くときには律儀に車道側を歩きたがる彼を、きっとほんとうの意味では憎めない。

 

疲れ果てて帰宅すると、目をしょぼしょぼしながら笑う彼がいる。そろそろ30歳、好きなものは、ビールとラーメン。

 

単純で、難解で、いとおしい、日常。

 

 


くるり - ふたつの世界 / Quruli - The Two Worlds

水嶋さんのはなし

「水嶋さん、元気かな」

先日、職場の手洗い場を使っている最中そんなことを思った。銀色の蛇口から出た冷たい水が、指の間を流れいく。

シャワーや蛇口から流れる水、排水溝に流れる水、トイレの便器でぐるぐると渦を巻いて流れる水。

 

 

水を見ると思い出す「水嶋さん」

それは、小さいころ実家に居た不思議なおばけのことである。

 

 

水嶋さんとの出会いは、小学校6年生の夏。

我が家は二階建てなのだが、そのときほかの家族は牛舎に出ており(実家は畜産業である)、1階に私、2階に母がいた。1階のソファで寝そべって漫画を読んでいると、トイレから水を流す音が聞こえた。誰か帰ってきたのかと思ったが、しばらくたっても足音なども聞こえない。2階にいる母が知らぬまに降りてきたのかと思い、おかあさーん、と試しに呼んでみる。すると2階から母の返事が聞こえたので、いよいよ不審に思ってトイレを見てみれば、誰もいない。ぎょっとしてその場に立ち尽くしていると、今度は背後にある洗面所から水の音。蛇口から水がちょろちょろと流れていた。

背筋がひんやりと冷えるのを感じて、2階にいる母のもとへ全速力で向かい、ことの経緯を報告した。母はあっけらかんという感じで「まぁ、うちお墓も近いから、そういうこともあるよねぇ」と言ってのけた。

この話はその日の夕飯の席でも上がり、家族会議で「どうせなら名前でもつけよう」ということになった。

「水の出来事からはじまったから、水嶋さんじゃない?」

数分の協議の末、けらけらと笑ってそう言った母の案が可決された。

 

水嶋さんは、それからも不定期に我が家にやってきた。否、いつもいたのかもしれないが、なにかしらの行動を起こすのはいつも前触れなく突然だった。

ある日は、玄関やテーブルの上に木の実や落ち葉がこんもり小さく盛られていたり、テレビを見ていると砂嵐になったりした。

不思議なことに水に関することはその後一切おきず、私が14歳になるころには小さないたずらの数々もぱったりと止んだ。

 

水嶋さんがいなくなったころはちょうど思春期だったので、「なんだかわからないけどお父さんが嫌」という中2女子共通の問題が発生していた。そうなると水嶋さんの正体は父か。つっけんどんな私の態度に、水嶋さんを名乗るいたずらをするのも気が引けてしまったのだろうかなどと考えたが、水が勝手に流れたり、テレビが砂嵐になる現象の説明はつかない。

結局私の頭ではこれ以上仮説も立てられないので、深く追及することはやめた。

 

あれから十年たったいまでも、ときどき、水嶋さんのことを思い出す。

 

出会ったとき、私は人里離れたところに住む、友達の少ない寂しい小学生だった。姿かたちの見えない水嶋さんを、ひそかに家族の一員が増えたような、新しい友達ができたような、ちょっとうきうきした思いで意識していたのだ。

 

もうどこで何をしているのかわからない、やっぱり本当は、半分くらいは父の仕業だったかもしれないけど。

 

水嶋さんはいまでも、お茶目で、愛らしい。

おばけであり、家族であり、モノ申さぬ友人であった。

 

「水嶋さん、元気かな」

どこかで元気にやっていてくれたら、それはそれで幸せだと思っている。

性分、

人と話すことが苦手だ。緊張してやたらにどもるし、説明を求められる場面では正直逃げたくなるときもある。

好きと得意は必ずしも関連しないというのはきっとこういうことで、人と話すこと自体は好きだ。

調子が良いとちょっとその辺で出会ったひとなどにも話しかけてしまうし、あんまり人見知りしないでしょうなどとも言われる。

ついでに論文等を発表する場においても、ほんとうは緊張で頭真っ白なのだが、何かが覚醒するのか質疑応答までスムーズだったりする。それは他人から聞いた話で、当の私は記憶があいまいなのでよく分からない。ただのお世辞という可能性もいささか否定できないので、あまり考えないようにしている。

 

人と向き合って話すことが怖いので、反射的に本心の上に幾重にも言葉のベールをかけて、しまいには本当に言いたいことさえ迷子になってしまう。語彙力がつたないので尚のことそうなる。

幼少期から思春期にかけて色々こじらせた結果、めんどくさい性分になってしまった。それでも、私が本心を隠そうと無理くり引っ張ってきた言葉のベールを、同じように無理やりにも取っ払ってくれた幾人かの友人、または見知らぬ人々のおかげで、少しはましになったのかと思う。

 

あなたが何を言いたいのかわからないと言われたとき、私だってこの気持ちをどう伝えたらよいのかわからないのだと、泣いてしまった時がある。

否、本当は伝え方を見つけていても、怖くて言えなかったかもしれないけれど。

 

怖さを持つことで、周囲の人間関係のしくみを知ってきたけれど。

怖さだけで向き合ってはいけないということも、わかってはいるのだけれど。

足かせに救われている感覚が生々しくて、まだ手放せないでいる。