ありをりはべり

日常のひきこもごも

桃色にマーガレット

その薬を飲み始めたのは、3年程前からだ。

卵巣の機能が悪いために、周期ごとに出されるべきホルモン量が少なく、薬で補てんする必要があった。

不規則な生活が原因とも言われるが、本当のところはまだよくわかっていないらしい。

「これはいつか不妊症になるし、薬を飲みましょう」主治医のその言葉にも、最初はどこか他人事のようだった。

若いうちになにか対策をとるべきだと言われても、この時彼氏すら居らず、子供だって欲しいわけではなかった私は、なんだかちぐはぐな気持ちだった。だが治療しなければ、他の病気を併発する可能性もある。

それはそれで困るし、毎日薬をおおよそ決まった時間に飲むのはしんどそうだけれど、仕方ないと腹をくくったのだ。

しかし薬はどんな薬でもそうだが、必ず副作用がつきまとう。

案の定、不規則な仕事のために、服用時間が業務時間に被り数時間ずれてしまったことがあったし、旅行に行く際に持っていくのを忘れてヒヤッとしたこともあった。

飲みはじめは、副作用にも少々悩まされた。わたしは立ちくらみや嘔気等の軽いもので済んだが、服用している間は下肢に静脈血栓を作りやすくなるため、立ち仕事で浮腫が出来やすいことはイコール血流が滞ることを意味し、そのリスクをさらに増幅させるため危機感があった。

最近では、医療保険に加入する際の審査で、薬を飲んでいることが引っ掛かり、結局第一希望への加入を断念することになった。

 

この数年の間、ほんとうにほんとうにすこしだけだが、女性に生まれたことを後悔した。

 

 

薬を定期的に処方してもらうために、通っている産婦人科。一人のおじいちゃん先生と、数人の看護師さんという最低限のスタッフだ。先生は、名字が変わり結婚したと知ったとき、孫を見るような優しい笑顔で、おめでとうと言ってくれた。そして「子供はたくさん作りなさいよ。最低五人!」とわっはっはと快活に笑った。

子供が欲しいと思っていなかった私も、ぼんやりとだが、いつか先生に自分の子供を見て貰えるだろうか、と思うようになった。まだ言葉も覚えないころに、あの優しい笑顔に包まれたら。想像してみれば、それはとても幸せな画だったのだ。

 

だから、いつものように薬を処方して貰いに産婦人科を受診した際、閉院すると聞いたときは驚いた。

 

おじいちゃん先生は、しわくちゃの顔をさらにしわくちゃにさせて笑いながら、これまた切り干し大根みたいなしわしわの手で、今時見ない紙のカルテをぱらぱらめくりながら、言った。

もうねー、さぼろうと思うんだよね、と。インキョインキョ、と相変わらず快活に笑って。

初診時から現在までの記録を辿りながら、ひとつひとつ丁寧に、病状の経過を説明してくれる。

別の医師によれば不妊症一歩手前だった私はいま、子供がいつでも作れるからだになった。

 

「よく、頑張りました」

そのたった一言で、目頭が熱くなる自分がいて。あぁ私はなんだかんだと言い訳しながら、本当はきっと、この病と診断されてから、子供を産めない体になることが怖かったのだ。本当はずっと、子供が欲しかったのだと、思った。 

 

お世話になりました、とそれだけを言うのが精一杯だった。

 

会計を済ませ、受付にいる看護師さんから包装紙に包まれたら薬を受けとる。

 

いつもは寂しげな薄いブルーの包装紙なのに、この日は何故か桃色にマーガレット模様の、やけに春めいたものだった。

それが、どうしてかとても切なった。しかも数ヵ月ぶんをまとめて貰ったので、薬の重さをずっしりと感じて、何だか大きな土産物みたいでより切なさが増した。

 

数ヵ月後には、別の産婦人科医院に通うことになる。

もうおじいちゃん先生のいる産婦人科へ、足を運ぶことはない。

 

けれど、きっと私は暫くの間、あの包装紙を捨てきれないだろう。

 

桃色にマーガレット模様の、柔らかな色彩。

 

それはやはり、あのしわくちゃな笑顔のように

 

とても温かで、幸福な画だったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ふたつの世界

 

よく私なんかと結婚しようと思ったものだ。

メガネの奥の、これでもかと細められた目を前に、ときどき思う。

 

18歳から始めた一人暮らし。一人旅が好きで、一人ライブが好きで、一人ご飯が好きだった。

1Kのアパートは、私にとってはささやかな城みたいなもので、不器用なくせにDIYという魔法に騙されて、随分いろいろと変なものを作った。呆れるほど、楽しんだ。

 

転機が訪れたのはなかなか突然で。最初はかなり心配したものだったけれど、思ったよりも他人と時間を共有することは楽ちんで、難解だった。

「どんなに仲が良くたって、所詮他人同士」という概念は最早ポリシーみたいに思っていたのに、私は自分が思うよりずっと、欲深い人間だったみたいだ。

けれど何度すれ違って、ぶつかり、やっぱり一人のほうが楽だったなぁなんてぼやいたとしても。

 

外を歩くときには律儀に車道側を歩きたがる彼を、きっとほんとうの意味では憎めない。

 

疲れ果てて帰宅すると、目をしょぼしょぼしながら笑う彼がいる。そろそろ30歳、好きなものは、ビールとラーメン。

 

単純で、難解で、いとおしい、日常。

 

 


くるり - ふたつの世界 / Quruli - The Two Worlds

水嶋さんのはなし

「水嶋さん、元気かな」

先日、職場の手洗い場を使っている最中そんなことを思った。銀色の蛇口から出た冷たい水が、指の間を流れいく。

シャワーや蛇口から流れる水、排水溝に流れる水、トイレの便器でぐるぐると渦を巻いて流れる水。

 

 

水を見ると思い出す「水嶋さん」

それは、小さいころ実家に居た不思議なおばけのことである。

 

 

水嶋さんとの出会いは、小学校6年生の夏。

我が家は二階建てなのだが、そのときほかの家族は牛舎に出ており(実家は畜産業である)、1階に私、2階に母がいた。1階のソファで寝そべって漫画を読んでいると、トイレから水を流す音が聞こえた。誰か帰ってきたのかと思ったが、しばらくたっても足音なども聞こえない。2階にいる母が知らぬまに降りてきたのかと思い、おかあさーん、と試しに呼んでみる。すると2階から母の返事が聞こえたので、いよいよ不審に思ってトイレを見てみれば、誰もいない。ぎょっとしてその場に立ち尽くしていると、今度は背後にある洗面所から水の音。蛇口から水がちょろちょろと流れていた。

背筋がひんやりと冷えるのを感じて、2階にいる母のもとへ全速力で向かい、ことの経緯を報告した。母はあっけらかんという感じで「まぁ、うちお墓も近いから、そういうこともあるよねぇ」と言ってのけた。

この話はその日の夕飯の席でも上がり、家族会議で「どうせなら名前でもつけよう」ということになった。

「水の出来事からはじまったから、水嶋さんじゃない?」

数分の協議の末、けらけらと笑ってそう言った母の案が可決された。

 

水嶋さんは、それからも不定期に我が家にやってきた。否、いつもいたのかもしれないが、なにかしらの行動を起こすのはいつも前触れなく突然だった。

ある日は、玄関やテーブルの上に木の実や落ち葉がこんもり小さく盛られていたり、テレビを見ていると砂嵐になったりした。

不思議なことに水に関することはその後一切おきず、私が14歳になるころには小さないたずらの数々もぱったりと止んだ。

 

水嶋さんがいなくなったころはちょうど思春期だったので、「なんだかわからないけどお父さんが嫌」という中2女子共通の問題が発生していた。そうなると水嶋さんの正体は父か。つっけんどんな私の態度に、水嶋さんを名乗るいたずらをするのも気が引けてしまったのだろうかなどと考えたが、水が勝手に流れたり、テレビが砂嵐になる現象の説明はつかない。

結局私の頭ではこれ以上仮説も立てられないので、深く追及することはやめた。

 

あれから十年たったいまでも、ときどき、水嶋さんのことを思い出す。

 

出会ったとき、私は人里離れたところに住む、友達の少ない寂しい小学生だった。姿かたちの見えない水嶋さんを、ひそかに家族の一員が増えたような、新しい友達ができたような、ちょっとうきうきした思いで意識していたのだ。

 

もうどこで何をしているのかわからない、やっぱり本当は、半分くらいは父の仕業だったかもしれないけど。

 

水嶋さんはいまでも、お茶目で、愛らしい。

おばけであり、家族であり、モノ申さぬ友人であった。

 

「水嶋さん、元気かな」

どこかで元気にやっていてくれたら、それはそれで幸せだと思っている。

性分、

人と話すことが苦手だ。緊張してやたらにどもるし、説明を求められる場面では正直逃げたくなるときもある。

好きと得意は必ずしも関連しないというのはきっとこういうことで、人と話すこと自体は好きだ。

調子が良いとちょっとその辺で出会ったひとなどにも話しかけてしまうし、あんまり人見知りしないでしょうなどとも言われる。

ついでに論文等を発表する場においても、ほんとうは緊張で頭真っ白なのだが、何かが覚醒するのか質疑応答までスムーズだったりする。それは他人から聞いた話で、当の私は記憶があいまいなのでよく分からない。ただのお世辞という可能性もいささか否定できないので、あまり考えないようにしている。

 

人と向き合って話すことが怖いので、反射的に本心の上に幾重にも言葉のベールをかけて、しまいには本当に言いたいことさえ迷子になってしまう。語彙力がつたないので尚のことそうなる。

幼少期から思春期にかけて色々こじらせた結果、めんどくさい性分になってしまった。それでも、私が本心を隠そうと無理くり引っ張ってきた言葉のベールを、同じように無理やりにも取っ払ってくれた幾人かの友人、または見知らぬ人々のおかげで、少しはましになったのかと思う。

 

あなたが何を言いたいのかわからないと言われたとき、私だってこの気持ちをどう伝えたらよいのかわからないのだと、泣いてしまった時がある。

否、本当は伝え方を見つけていても、怖くて言えなかったかもしれないけれど。

 

怖さを持つことで、周囲の人間関係のしくみを知ってきたけれど。

怖さだけで向き合ってはいけないということも、わかってはいるのだけれど。

足かせに救われている感覚が生々しくて、まだ手放せないでいる。

 

 

 

 

拝啓、

 

 

3か月ほど前から、文通を始めている。

千葉、宮崎、東京に住む3人の女性と週1回から月1回。それぞれでだいぶ開きはあるものの、お互いの時間の合間でやりとりをしている。

 

文通をやろうと思いたったのは、ある日、棚整理の際に使っていないレターセットがいくつかあるのを発見したからだ。

久しぶりに手紙を書いてみようかと思ったが、送る相手と言えばいとこのお姉さんか両親くらいで。しかも現在はそう定期的にやっているわけでも無いので、こんにちはお久しぶりと突然手紙を送ることは、なんだか気が引けた。

なんなら文通してみるかと。おそらく思い立ったら行動にうつのは早いほうで、棚の整理をしつつ文通相手を募集するサイトに登録し、それから3時間で現在の3人の方と文通をすることになり、その日で3通の手紙を書いた。

 

文通は小学生以来のことで、全く面識のない相手へ手紙を書くという久方ぶりの行為に、だいぶ緊張した。字が汚いのがコンプレックスなのだが、初回はそれに手の震えまで加わり何枚か没にした。おまけに誤字脱字も多いので、これを人に渡すのかというレベルの仕上がりで自分には相当がっかりしてしまった。

好きな字体を選べて、かつ書いてはすぐ消せるパソコンは便利だ、とあらためて思う。けれど、チラシや公共料金のおしらせしか届かなかったポストに、ある日可愛らしい封筒が入っているのを見つけたときには、何とも言えない、すこしこそばいような嬉しさがやってくるので。いろいろ格闘しつつも虜になるのは早かった。

 

文通は某アプリのように、自分のメッセージが相手に届いたということが即座にはわからない。相手からの返事をもってしか、確実に届いたのかを知れない。

それは久しぶりに訪れた感覚で、そこに少々の不安を覚える自分に気付いたとき、いままで随分手元の小さな機械を中心とした生活を送っていたのだと思った。

そして他人から言葉を受け取ることをさも当たり前のように享受してきたけれども、伝えられない、またこちらにも届かないという万が一が存在することを思えば、さまざまな人の手を渡り、海をも超えてきた言葉の重みというものを感じずにはいられない。

ポストを開けた時の喜びは、旅を無事終えて届けられた、そしてあたたかな筆跡の向こうに、見知らぬ、けれどたしかに自分と繋がる誰かがいるという出会いの尊さにあるのだと思う。

 

 

汚い字をさらして、へたくそな文章で、ときどき誤字脱字を見つけてはへこみ、直しを加えながら、私はまた一通手紙を書く。

ばれまいと息を殺していたコンプレックスは、ペンと紙を前にすればすんなり隠れ蓑を引っぺがされてしまって、恥ずかしいことこの上ない。けれどいつかこのいびつな文字や、緊張しているわりに変に力の抜けた独特の筆圧だって、私にしかないものなんだと思える日が来るのかもしれない。

いつか、時間はかかるかもしれないけれど、自分だけにあてられた言葉が存在するしあわせを知ったように、自分の記す言葉も、大切にしていけたらと思う。

 

 

 


17歳女の zazen boys - KIMOCHI 弾き語り

 


17歳女の 東京事変-今夜はから騒ぎ 弾き語り

 

式日

「女の子は、綺麗でいないとね」
普段口下手な祖母が繰り返し口にしたのは、女性にとって、身だしなみを整えることがいかに重要であるかということだった。

当時私は中学生で、友達に教えてもらいやっと眉毛のそり方を覚え始めたとろ。

祖母は私の残念な眉毛をみやっては、まるで捨て猫でもみるような目付きで、ほら座りなさい、やってあげるから。と鏡の前に座らせて、非常に遺憾そうな顔つきながらも私専属の美容部員へ変身してくれた。

そりそりそり。と昔ながらの、やたらと切れ味が良さそうな剃刀を、適度な力加減で優しく扱う。 ぼうぼうのまゆげに注がれる視線は真剣で、それは授業参観日に慣れない化粧を頑張っていた母の目つきによく似ていた。それまで祖母を母と似ていると思ったことはなかったけれど、指先の間から見えるその眼差しに、ああやはり親子なのだと、やけに感動したのを覚えている。
部活帰りに祖母の家に立ち寄ったその日、季節は夏で、網戸の向こうで蝉がけたたましく鳴いていて、まさしくうだるような暑さだった。
エアコンがない祖母の家は、今にも羽が取れてしまいそうな扇風機と、小さくあけた玄関のドアから吹く心もとない風だけで室内の空気を循環させていた。
それなのにいつもきれいにお化粧をしていた祖母は、まったく崩れさせることなくそれを保っていて。最早同じ女なのにそうでないような、ある意味魔女なのかというような気持ちで齢70の祖母を見ていた。

今朝、鏡の前にたったとき、なぜだかふとあの夏の情景が浮かんで、少し可笑しくなった。中学生のときの私もいまの私も、やっぱり眉毛を整えるのが苦手で、もう書くのも面倒だからとほぼはやしっぱなしである。
こんな状態をみたら、祖母はなんていうだろう。ついでに、この秋お嫁にいくんだよと、伝えたら。
なんてことだって、びっくりして。また戸棚の奥から、やたら切れ味のよさそうな剃刀をとってきてくれるだろうか。

とても華奢なのに、波瀾万丈な人生を歩んできた故か力強さすらも感じたあの背中が、瞼の裏に過る。
大切なときには祖母が縫ったあの着物を着ると決めていたから。せめて秋までには、着物に恥じない女性にならなければと、すこしだけ心が引き締まる。

うだるような暑さと、洗面所にぽつんと置かれたピンクの眉毛用剃刀。

蝉のけたたましい鳴き声を聞きながら
もう、この世にはいない祖母と、懐かしいあの家を思い出している。

子供のくせに

子供のくせに、と言われることが、子供のころは本当にいやだった。
あらゆる失態の原因や大人の言う不都合な事実を、年齢を根拠に言われてしまう。
幼い私は、自分は幾つだからまだ不十分なのだ、と思うことに非常に憤りがあった。

やっと、ちょっとは大人を名乗ってもいいくらいの年齢になって。
果たして、あの頃の自分は本当に、大人が言うような力ない、理解の足らない人間であったのだろうかと考えてみる。

子供はたしかに、大人のように言葉を使えない。だがだからこそ、言葉の端々にある温度の変化、語尾に含まれる鋭さには敏感だ。

あるときは一瞬の表情でそれを読み取る。

自分がいま、なにをされ、なにを言われているのか。もやもやとしていて形には表せられなくても、思い起こせば、いま言葉に直すと当時も案外それに近いものを感じていたのだ。




当時小さな子供であった私にとって、大人は壁だった。

子供の癖に、と
何年も先にある「大人」という表札を頭上で掲げられて
もうそこからは何も言えなくなってしまう。

先月またひとつ年を取った私は
私と、私の友人たちを笑ったそのひとの年齢をとうに過ぎた。そして思う。

月日は、それだけでは何も意味をなさない。

限られた手段を手に、人一人に向き合おうとするその目をはね除けてはいけない。

むしろ無用な壁を作らず、表札を掲げず、自分の答えを待つ誰かがいる。その尊さを知らなければならない。

いつのまにか、コミュニケーションに利害を織り交ぜるようになってしまった自分自身も、戒めなければならないだろう。


小さい頃
子供の癖に、と言われることが嫌だった。


果たして彼らはいま
大人の癖にと言われれば、何を思うのだろうか。